第三章 さくら



私が帰ろうと立ち上がって風に揺れる鬱陶しい髪を振り払うと、彼奴が立っていた。
ひろむは少しつらそうに息も上がり切っていて、私の顔を見ると、ほっとしたような様子で近づいてきた。
「何かあったの?」
「さくらぁ」
 情けないひろむの声が聞こえて、私は大切そうに握り締めたギターをそっと、ひろむから預かった。
体力の無いひろむが珍しく走ったのか、息は今も治まりそうな気配も見せない。
 私はひろむをベンチに座らせて、ギターをその隣りに立てかけた。
小さいときからひろむの相棒であるそのギターは命よりも大事な宝物らしい。
傷なんか無い新品同様だったけど、箱は既にボロボロ。
になったら初給料で買い替えるのが夢になったらしい。
私はそんなひろむにギターを教わった事もあったけど、全く弾けないままだ。
「何があったの? デートは?」
「逃げられた」
「あっそ、どうせまたギター馬鹿だからフラれたんじゃないの?」
ひろむは少し怒った顔で私の顔を見つめた。
ひろむが何かと友達とか、女の子とかに話し掛けられてギター馬鹿のせいで嫌われる処、
私は何度も見たから今更何とも思わなかった。
フラれたって仕方がない。ギブソンのギターについて二時間も語る人だから。
「フラれてねぇもん、まだ嫌いとは言われてねぇ」
「一緒でしょ、逃げられたんだから」
「いいよな〜、さくらは歌姫だから」
 小さいときの懐かしいニックネーム。
小学校入って間もない頃、私は学校で歌姫と呼ばれた。
小学校の音楽室で勝手にピアノ弾いて遊んでたあの頃は、私もひろむも友達が沢山出来た。
あの頃のニックネームは「歌姫とギター馬鹿」だったけ? 
先生につけられたあだ名だったんだけど……。
「そんなにギターについて熱く語らなかったら、
今はやりの王子ってニックネームつけてもらえると思うけど」
「何それ? 俺ってギター王子?」
「今もギター馬鹿でしか無いけどね」
 ひろむは力なく笑った。
元気が無い。
仕方がないから、私はひろむのギターケースを開けてギターを持たせた。
「ほら、しっかりして。アンタにはギターしかないんだから」
「うう……。いいよな、さくらは」
そう言ったひろむは少しだけ泣いていた。
私にはひろむが本気で彼女の事を好きになったとは思えなかった。
いつだってギターの事が第一。
ひろむのお兄ちゃんに作ってもらう曲の事と私とひろむのバンドの事しか頭に無い。
それなのに、どうして泣くのかが分からなかった。
「ひろむ、泣くな」
ひろむは黙ってギターを抱きしめるとわんわん泣き出した。
昔から泣き虫だったけど、今もこんなに泣き虫だったっけ? 
それより、私はひろむの泣き虫には飽き飽きしていた。
ギター馬鹿にはついて行けるけど、私は泣かれたってどうにも出来ないから。
「もういい、其処で一人で泣いてたら?」
 私はそれだけ言ってひろむに背中を向けた。
ひろむはこの調子で当分涙に暮れる。
此処に居たって歌の練習なんか出来ないから帰った方が良い。
そう判断して、私は背中を向けた。




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