スカイブルーのトレジャーハンター
       親友だからこそオレは行く



 オレはぼんやりとと外を眺めていた。
 遠く離れた(ってほどでもないけど)蒲公英中にいる親友達が恋しかった。いつもいる筈の席はぽっかりと空いていて、オレはそれが凄く寂しかった。
「輝、元気出しなよ」
 サムがにこっとオレに笑いかけた。オレの心は真冬同然だって言うのに、サムはまるで桜が満開だとでも言うかのように笑っている。羨ましいよ、全く。
 めちゃくちゃ幸せそうなサムは零とお揃いの指輪をつけていた。いつもは着飾る事もないサムだけに凄く珍しい。優しそうに笑う天使の横顔が掘り込まれたカッコいい指輪だ。
 サムは零が彼女だから平気なんだよ。オレと違って何処かで自分よりも仲のいい友達を作るような心配しなくてもいいんだ。大体、あの零がそうそう男友達を作るとも思えないし。
 オレは大きなため息をついた。
 本当はアイツが誰よりも好きだし、引越しだってして欲しくなかった。親友なんてものじゃねぇ。そう、サムと零みたいな関係になれたらどんなにいいだろう。どんなにアイツ、太陽を大事にしてやるだろう。
 でも、もう此処には真夏の空で輝くそれと同じ、スカイブルーのトレジャーハンターの太陽はいない。もう、いないんだ。
「きっと今日は帰りに会えるからさ、ね?」
 無邪気に笑って、サムはオレの頭を撫でる。元気付けるというよりは、いつも撫でてる太陽の代わりみたいな扱いだ。まあ、分かるけどさ。アイツの髪の毛さらさらで撫でてると凄く気持ちがいいから。
 オレはズボンのポケットからケータイを出すと、待ち受けの写真をじっと見つめた。写真の中では幸せそうに肩を組んでいるオレと太陽。それを見ていると急に泣き出しそうになった。泣かないようにと必死で堪えて、オレはケータイをぎゅっと握り締めた。
 サムは隣りの席に座って、大きなため息をついた。オレに呆れているのか、それとも零の事を考えているのか、それは分からなかったけど。
「ねぇ、神風君、パステル君」
 クラスの女子達が何人か、オレ達に近寄ってきた。オレはケータイを握ったまま、顔を上げる元気もなくて黙っていた。
「どうしたの?」
 お人よしのサムがオレの頭を小突いてから女子に笑ってみせる。オレはむっとしながら頭を抱えた。ギロッとサムを睨んだけど、オレには見向きもしていなかった。
「桜野さんと零ちゃんは?」
 オレは黙って太陽がいた筈の場所に目をやった。相変わらず、其処にはオレの名前を呼ぶ親友の姿はない。来る筈がないんだけど、それでもやっぱり期待してしまう。オレがバカで単純だからかな?
 クラス中の人間が噂している。『桜野は神風に近寄ったから転校させられたんじゃないか』とか『トレジャーハンターなんて馬鹿げた事をやってるから家族を殺されるんだ』とか。オレはそれを聞いているのも嫌で耳を塞いだ。サムがかなり呆れた様子でオレを見ているけど、そうせずにはいられなかった。
「零のいる家に引き取られたから、転校したんだ」
 サムは親切にそう女子達に教えた。それから元気出せと言いたいのか、力いっぱいオレの背中を叩いた。
「大丈夫だって」
 サムのその言葉が心にずんとのしかかってくる。そんな事を言われれば言われるほど悲しくなるんだって……。そうは思いつつ、オレは大人しく頷いた。でも笑える気分じゃなかった。ただ、凄く苦しかった。
 急に教室がざわめいた。転校生がどうしたとか言っているらしいけど、興味はないから見て見ぬフリを決め込む。
 そんな事はどうだってよかったんだ。もし今此処に、太陽が入ってきてくれたらどんなに嬉しいだろう。あの太陽と仲良く此処で笑えたらどんなに楽しいだろう。でも、笑えるような気分じゃなかった。
「神風、悲しいのは分かるが聞け」
 先生の言葉にオレは大人しく顔をあげた。本当は見たくもない転校生を見ようと。
 突然、サムが立ち上がって転校生を見つめた。普通じゃないその表情にオレはびっくりして、サムの腕を引っ張ってみるけど、サムは無反応。オレは前に視線をやる。
 其処にいたのは、オレ達が誰よりも知っている筈の人物二人だった。確かに変装をしていて誰だか分からないかもしれないけど、俺には一瞬で分かった。冷静なサムが動揺するその理由がたったの一瞬で……。
 其処にいたのは茶色の髪の青い大きな瞳を持つ少年と、眼鏡と何処からどう見てもヅラのクソチビだった。でも、見間違いたくても見間違えない。確かにその二人はオスカーとサタナエルの二人だったのだ。
「こんにちわ☆ オスカー・ヘンダーソンです」
「菅俊介です、ヨロシク」
 そして呆然としているサムとオレに向かって飛びっきりの笑顔を浮かべて
「久しぶりだね、スカイブルーのトレジャーハンターさん達☆」
と、そう確かに言ったのだ。

始業式も終わり、帰る時だった。
 怯えたように大人しいサムと並んで歩いていたオレは、突然オスカーに声を掛けられた。サタナエルと一緒ではないらしい。近くには見当たらない。
 オレの隣りにいた筈のサムがささっとオレの後ろに逃げ込んだ。がたがたと小刻みに震えているのを気配で感じたから、相当怯えているんだろう。
 オレはサムに気を使いながら、オスカーを睨み付けた。いつでも殴れるようにと握り締めた拳と少し重心を落とした姿勢でケンカ腰だったけど、何とか気付かれないようにと気をつけていた。
 オスカーはそんなのお構いなしにニコニコと笑いながらオレに向かって言う。
「輝、久しぶり☆」
「何の用だよ?」
「転校生が挨拶しただけじゃん、おかしくなんかないでしょ?」
 オスカーはそう言ってニコニコと笑いかけると、時計をチラッと見た。それからオレに向かって
「じゃあ、俺には仕事があるから」
と言って手を振りながら教室を出て行った。
 オスカーの言う仕事が何の事だか、オレにはイマイチ分からなかった。オレにはそれよりも泣き出しそうな顔をしたサムをどうにかしなくちゃいけなかったから。

「え、太陽が遊びに行った?」
 何処かくらい表情の零は、ぐずぐずと鼻をすすっているサムの頭をぽんぽんと叩きながらオレに言った。
 零にやっと会えたと思ったらこれだよ。一緒にいないからおかしいなぁとは思ってたんだけどさ。早速新しい友達を作りやがったぁ〜っ!!!!
 ショックで何も入っていない筈の鞄はずっしりと重く感じるし、本気で泣きたくなってきた。いつもならサムが沈んだ気分を盛り上げてくれるんだけど、今日はオスカーの事でサムの方が沈んでるし……。零は申し訳なさそうな面をぶら下げて、オレをじっと見つめてる。
 零は沈んだ気分のオレに、太陽の事をゆっくりと話し始めた。簡単にまとめるとこうだ。
 帰りに空色中の制服を来た茶髪の男に声を掛けられて、その場でデートに誘われたらしい。
 背丈はサムくらいで眼鏡をかけていたらしい。仕草はぎこちなく、高そうな革靴を履いていたらしい。肌の色からして白人だったらしい。
 入っていけそうにない雰囲気だったから遠くから見ていた零にはそれ以上何も見えなかったみたいだけど、二人はすぐに意気投合したらしい。
 太陽はその男を『スティーブン・ハリス』っ名乗っていたって話したらしい。日本語はあんまり得意じゃなかったらしく、英語で話をしたらしい。アイツ、英語なんて話せるのか? オレの知ってる限り、太陽は三単現も知らないバカの筈。
「私も初めて見る生徒でしたから、転校生じゃありません?」
 零はそう、呟くように言って、サムの顔を見る。さらっと揺れた黒髪が少し鬱陶しそうだった。
「その人、太陽が好きそうなタイプ?」
「いいえ」
 サムが少し深刻そうな顔をしながら、あごに手をあてる。何か考えている時のサムがよくやるクセだ。たかが男友達ってだけでサムがそんなに深刻に考えるなんて、何かおかしいとオレは感づいた。
「どうかしたのか?」
 オレはサムに尋ねた。
「それ、もしかしたらオスカーかもしれない」
 深刻そうな顔で、サムは少し俯いたまま呟いた。真っ赤な髪を風が揺らしていった。それと同時に、サムの考えていた事が分かった。
 零が見た事のない空色中の生徒で、茶髪の男なんて今日転校してきたオスカーくらいだ。しかも、身長とかの事を考えてもまず間違いない。何を企んでるのかは知らないけど、もしかしたら太陽を利用するつもりなのかもしれない。そうだ、オレ達に何かを要求したいんじゃないのか?
 サムは急に顔をあげるとオレの腕をつかんだ。それから零とオレに向かって
「行こう、追わなくちゃ」
と言って駆け出した。

 零の話から、二つ隣りの町のショッピングモールに目をつけて、オレとサムと零は来た。
 中学生の二人が遊ぼうって言ったら此処のショッピングモールでアイスでも食ってウィンドウショッピングが妥当な筋だ。
 何分も探し回ったけど、幸い読みは当たってアイスがおいしいって噂の喫茶店に太陽はいた。間違いなくオスカーが一緒にいた。
 太陽は幸せそうに笑いながらアイスを食べていた。オスカーはそんな太陽を見ながら甘そうなカプチーノを飲んでいる。どうやら太陽はオスカーだって気がついていないらしい。
 やれやれと思いつつ、サムがとりあえず変装して中に入って様子を見てきてくれる事になった。
 すぐにサムは赤い髪を隠せる黒い帽子とGパン、ネクタイを外した制服のカッターシャツのカッコに着替えてきた。黒いサングラスをかけているから、話しかけられるまでサムだって気がつかなかった。
 オレはびっくりしながら一度帰ったのかと訊いた。サムは笑って鞄にいつも入れてるんだって、そう言って笑った。それから、唖然としている零に通学鞄を渡してから
「その辺にいて、メールで状況を教えるから」
と言って一人中に入って行った。
 オレと零は諦めて、ショッピングモール内のベンチに腰を下ろした。
 その場所からは何とか店の中が見える。
 太陽とオスカーは何かを話しているらしい。サムはそんな二人と壁一つ挟んだ向かい側の二人用の椅子に座った。
 オレが必死で太陽を見ていると、ケータイが震えた。びっくりして飛び上がった。ケータイを見ると、メールだったらしい。サムからになっていた。
 零が興味津々でケータイを覗き込む。オレも気になって仕方がなくて、大急ぎでメールを開いた。
「本当にただアイスを食べに来ただけみたい」
 サムのメールはその一言だけで、あとは全く音沙汰なし。何があったのかはオレには全然分からなかった。だいぶ離れていたし、何しているのかもイマイチ分からない状態だったから。
 そのまま三十分位したら太陽達は出てきた。
 何処へ行くのかぼうっとしながら眺めていると、サムがこそこそとこっちへ戻ってきて
「輝、もう帰った方がいいよ」
とそれだけ言った。
 サムが言いたい事は分かるよ。
 太陽とオスカーが妙に仲良しだから、キスするかもしれないって言いたいんだろう。でも、見た方がいいに決まってる。見なかったら後で絶対に後悔する。見たら見たで、はっきりフッ切れる。相手が相手だからめちゃくちゃ悔しいけど。
「いい、大丈夫」
 オレはそう呟いて、太陽の背中を見つめた。何処か幸せそうな太陽は、時折オスカーと顔を見合わせて楽しそうに笑う。それを見ているとなんだか凄く悲しくなってくる。
 二人は出口へ向かって歩き始めた。もう帰るのかと思いながら目で追いかけて、オレは外に出た。日が沈み始めていて、だんだんあたりは暗くなり始めていた。でも、そんなモノに目を向けている暇はない。
 サムと零が少し後ろを呆れ気味についてくる。オレが急かすと呆れたと肩をすくめた。仕方がないからオレは二人を無視して太陽を追いかけた。
 二人は駅へと続く道を真っ直ぐ歩いていく。オレはそんな二人から十メートルくらい離れて歩く。皆帰りだす時間だからか、辺りは人も多く、二人を何度か見失いそうになった。
 駅のすぐ前で、太陽とオスカーは立ち止まった。オレは焦って電話ボックスの陰に隠れた。見つかるかと思ったけど、大丈夫だった。
 後ろから追ってきたサムと零が仲良く電話をかけるフリをしてボックスの中に入った。オレはそんな二人に少しだけ目をやって、すぐに太陽とオスカーに目を戻した。
 二人は何かを話をしているらしかった。何を話しているのかは聞き取れないけど、太陽が嬉しそうなのは確かだ。オスカーは一瞬振り返った。そして確かにオレを見て、意地悪そうににやりと微笑んだ。
 ドキッとしてオレはオスカーを見つめた。でもオスカーは確かにオレを見て笑っている。どんなに瞬きをしてみても、オスカーはこっちを見ている事は変わらない。
 オスカーは不意に目を太陽に向けた。そしてその腕を引っ張ると、太陽の肩をぎゅっと抱きしめた。
 思わずゲッと言っちまったから、オレは急いで俯いて背中を向けた。ありがたい事に二人の所にまで、声は届かなかったみたいでほっとした。
 オスカーはこっちに向かってウィンクを飛ばすと、太陽の頬にそっとキスをして
「じゃあ、またね」
と手を振って、タクシーに向かって走っていった。ぼうっと突っ立っている太陽は、その背中に黙って手を振っていた。
「いわんこっちゃない」
 サムが電話ボックスから顔を出してそう呟いた。

 翌日、オレは腫れぼったい目を擦りながら家を出た。昨日の夜は泣き明かしたおかげでほとんど寝てねぇし、目は真っ赤。本当は学校なんか行ける気分じゃないし休みたかった。でも、これ以上兄貴に心配掛けたくなかったから出てきた。
 兄貴は朝からずっと、心配そうに
「送っていこうか?」
と繰り返していた。そんな兄貴を黙らせるのに朝からだいぶと苦労した。だから家にも居たくなくて、オレは家を出た。
 暗い気分のまま、オレは学校に向かって歩いた。まだまだ夏空の日差しと酷い頭痛に吐き気を感じた。何も入ってない筈の鞄がずっしりと重く、何度か立ち止まった。
「ひっかるぅうっ!」
 突然後ろから声がして、オレは立ち止まって振り向いた。声の主は真っ直ぐオレに突っ込んできて、オレはよろけてすぐ近くの電信柱に手を突いた。
 太陽だった。
 蒲公英学園とは全く違う方向の空色中へ、コイツは何をしに来たんだろう。ああ、そうか。オスカーに会いに、だ。昨日、空色中での待ち合わせの話もしていたんだろうな。
「どうしたんだよ? 元気ねぇなぁ」
 太陽はオレの肩を強く揺さぶると、不安そうな顔をしてオレの顔を覗き込む。その表情が本物だって、何故かオレには信じられなかった。
 それに、今のオレは何をやらかすか自分でも分からない状態だったから、コイツにだけは会いたくなかった。
 オレは落ち着いて深呼吸を何度か繰り返すと、太陽をじっと見つめた。
「昨日、何してたんだよ?」
「ああ、なんか仲良くなったスティーブンってヤツとアイス食いに行ったんだ」
「スティーブン?」
 偽名なのか? とオレは少し変に思いながら、それと同時になんで変装しているオスカーだって気がつかないのかと腹が立ってきた。
「おう、スティーブン・ハリスって名乗ってたぜ☆」
 太陽は明るく笑った。
 子供じみてるのは分かってた。でもそうせずにはいられなかった。こんな気持ちは初めてで、どうやって抑えるのかすら分からなかった。泣き出しそうになるのを堪えて、オレはその気持ちに従った。
 オレは顔を背けると、空色中に向かって走った。太陽の顔を見ている事すら出来なかった。ただ、其処にいるのが苦しくて仕方がなくて……。
 太陽が後ろで何かを叫んでいるのが聞こえるけど、聞きたくなくてオレは耳を塞いで走った。流れ落ちる汗さえも感じないくらい、オレはがむしゃらに走り続けた。
 学校に着くと、校門の前で立ち止まって初めて振り返った。太陽が追いかけてくるんじゃないかと思ったけど、そんな事はなくてほっとした。でもそれと同時に、其処にいた別の人物の言葉に込み上げて来た涙を堪え切れなくなった。
「輝、何があったの?」

 教室でオレはサムに全部話すようにと言われて、仕方がないから話した。
 今のオレにはサムに逆らうほどの元気はなかったし、何よりサムの口調が信じられないくらい冷たくかったから怖かったんだ。いつもは絶対に怒ったりしない、あのサムがオレを睨みつけてたんだぜ? 話さなかったら殴られるのは確実だし、サムにだけは殴られたくなかった。
 サムは話を何も言わずに黙って聞き、時々頷く以外の動きは一切しなかった。なんだかサムに怒られている気分になって嫌だった。
 話が終わった頃、俯いていたオレの前に誰かが立った。サムがオレの頭を押さえつける(どうやらオレを守るつもりらしい)と、立ち上がってソイツに言った。
「何か用?」
「輝に用があるからサムは下がっててよ」
 間違いなくオスカーの声だった。
 サムが珍しくオレを守るようなマネする筈だよな。今オレが一番会いたくないのはオスカーだから。
 でも、オスカーはサムを押しのけると、オレの前にそっとしゃがんだ。そして机に手をつくと、
「昨日は本当に楽しかったんだよ」
って、ニヤリと嫌な笑みを浮かべた。
 それはまるで無邪気な子供みたいで、それと同時に嫌味な笑顔も混じっていた。見ているだけで胸やけがした。
 オレは顔を反らしたけど、オスカーはしつこくオレに顔を近づける。鬱陶しいとは思うけど、移動するだけの元気はなったし、何より行く宛てなんか何処にもない。此処に黙って座っているしかなかった。
 サムがオレの肩をそっと叩くけど、気分が悪くなっていくのを促進するだけだった。あえて気分を明るくしようともしたけど全然駄目だった。
「太陽ちゃんかわいいよね、アイスをおごってあげるって言っただけで付き合ってくれたよ」
 オレは深く息を吸い込んだ。
 鼻の奥がつんとするけど、歯を食いしばって涙を堪える。零れ落ちそうになった涙を止めようとまばたたきを繰り返す。堪え切れなかった涙が机にぽたっと落ちた。
「太陽ちゃん、俺に何て言った思う? 『付き合う』だってさ♪」
「オスカー、いい加減にして」
 サムがオスカーの肩を突き飛ばした。
 さらっと目の前で揺れた真っ赤な髪に、その場にいた皆が振り返った。そりゃそうだ。ケンカとは無縁のサムが珍しく手を出したのだから。それもあのサムが太陽みたいな背中をオレに向けてたんだから。
「パステル君。俺に手を出したからには覚悟が出来てるんだよね?」
 サムは真っ直ぐとオスカーを睨みつけていた。
 怒っているのが、見なくても分かるくらい殺気立っている。サムとは思えないくらい冷たい目をしていて、オレをかばうように立っていた。恐れや後悔を微塵も感じさせない、サムの大きな背中がとても心強かった。
 でも、オスカーはニヤリと怪しげに微笑むだけ。それもやっぱり嬉しそうな笑顔だ。サムの神経を逆撫でするような、そんな視線。それを真っ直ぐサムに向けたまま、
「パステル君、殺し屋でも雇って零ちゃんを殺してもらったっていいんだよ」
とオスカーはオレにぎりぎり聞こえるくらいの声で囁いた。
 その瞬間だった。サムがオスカーのネクタイを掴むと、まるで太陽がケンカしてる時みたいに拳を後ろに引いた。
 まるで一番初めに会った時の太陽の目みたいに鋭い視線だった。太陽のと唯一違うのは、色が澄み切った海の色をしているって事だけ。
 急に怖くなって、オレは顔を背けた。
 仮にも相手はオスカーだ。あの太陽を一度は負かした事があるような人間だ。サムみたいに銃しか取り柄のないヤツに勝てる筈がない。
でもサムは確かに拳を握っていて、オスカーの頬にぶつけた。体育の柔道を見てる限り、武道は一切駄目なサムとは思えないような重い拳だった。
 オスカーはその拳を避けもせず、受け止めもせず、黙って静かに殴り飛ばされた。何処か悲しげな表情を浮かべながら、反動で後ろによろよろと下がる。机にぶつかって、止まったオスカーは血を床に吐き出した。
 サムはオスカーを強い目で睨みつけ
「いい加減にして、文句があるなら俺にはっきり言えばいいでしょ?」
といつもと同じ淡々とした口調で言った。
 オレはそんなサムの言葉にクソ暑い筈の教室で冷や汗を流していた。寒い、そう本気で思った。
 サムが怖いなんて、今まで一度も思った事がなかったんじゃねぇかな? サムはいつだって拳なんかに頼らず、言葉だけで驚くくらいあっさりとすり抜けてしまう。こんなに感情的になって手を上げる事なんか絶対になかった。冷静沈着で、どんな時も紳士でいられる凄いヤツだってずっと思ってた。そう、まるで機械みたいに。でも違った。サムだって人間で、時には感情的になって、拳を握る事があるんだ。オレにはそれがなかなか信じられなかった。
 オスカーは黙って口を拭うと、真っ赤に汚れた右の手を見つめた。サムはまだ真剣に怒った顔のまま、オスカーをじっと睨みつけている。
「うわぁ、サムに殴られたのって何年ぶりかなぁ」
 すると、黙って離れた所で見ていた筈のサタナエルが急にオスカーに近寄って行って
「パステル君、暴力はダメだよ」
とニヤリと笑って見せた。そして、今にもプチンと切れかねないサムの顔を覗き込んだ。
 よくやるよな、コイツ。オレだったら怖いから絶対しない。
「賢治、今すぐ取り押さえてまた刑務所へ送り返してあげようか?」
 にこっと優しく微笑んで見せたサムの横顔は信じられないくらい穏やかだった。むしろ、その笑顔と言葉のギャップに恐怖がこみ上げてくる。よかった、サムの友達で。
「パステル君、勘違いしてるみたいだけどオレは俊介だよ」
「ああ、そうだったね。サタナエル」
「痛い目を見たくないなら、オスカーに謝ってもらえる?」
「俺の親友を傷つけるヤツに謝る気はさらさらないよ」
 サムはそう言って、オレの肩を軽く叩いた。
「いいね、その目。懐かしいよ」
「君達こそ、謝る気がないんだったら俺の視界から消えてくれる?」
「それはこっちのセリフだと思うけど?」
 サタナエルはむっとした顔でサムをにらみつけたけど、オスカーがヤツを止めたからそれ以上は何も言わなかった。
「行こう、ケンカはいつでも何処でも出来るけど、過去だけはどうしても消せないからね」
 オスカーはそう少しすまなさそうな顔をして、オレとサムに軽く頭を下げた。何でだろう、オレはオスカーに腹が立っていた筈なのにその面を見たとたんに一気に静まっちまった。むしろ、同情さえ覚えるほどだった。
「ごめんね、二人とも」
 オスカーはそれから方向を変えて教室の自分の席に座ろうと歩き始めた。
 サタナエルは違った。オレの耳に口を寄せるとサムに聞こえないようにこう囁いた。
「せいぜい太陽ちゃんをとられないようにね」
 オレはその言葉を聞いている事が出来なかった。苦しくて悔しくて、それと同時に図星まで突かれていたから。
 溢れ出した涙と込み上げてきた怒りとが、オレの中で膨らんで風船みたいにはじけたのだ。それと同時に、オレは今までもしなかったしこれからもしないつもりだった、けっしてしてはいけない事をさせた。
 オレは拳を握ると、思いっきり怒りに任せてサタナエルの顔面を殴りつけたのだ。
 ガタンと机が倒れる音と、オスカーが駆け寄る音が同時に聞こえてくる。そしてじんじんと拳が痛む。でもそれは怒りで消え去っていて、自分が今まで貫いてきた筈のものをいとも簡単に崩してしまった。
「いったぁ」
 サタナエルが無様に起き上がった。サタナエルの後ろに4つ、きれいに並んでいた筈の机が倒れてぐしゃぐしゃになっていた。その机の前にしゃがみこんで、オスカーがサタナエルに手を貸していた。
「派手にやられたね、大丈夫?」
 徐々に増えていく涙のおかげで、サタナエルは霞んでよく見えなかった。それに、オレはもう何も見たくないって気分だったし。
「オスカー、オレの代わりに一発殴ってきてよっ」
「嫌だよ、今のは君が悪いと思うしさぁ」
「オスカー」
 サタナエルがそういう声が聞こえる。何処か殺気のこもった低い声で、オスカーが黙って従おうとする気配も感じる。しんと静かな教室にオスカーの足音が響く。
「ごめんね、俺も一応仕事だから恨まないでね」
 オスカーが囁く声が聞こえて、オレは顔を上げた。視界に入ったのは霞んだオスカーの拳だった。
 いつもだったらオスカーの拳くらい軽く避けられる。でも、今はそんな力も出なかった。ただひたすら悔しくて、悲しくて、どうしようもないくらい胸がズキズキと痛かった。
 諦めて目を閉じるとすぐに、オスカーの拳が鳩尾に食い込むのを感じた。太陽とは違った意味で重い拳で、机に凄い勢いでぶつかった。背中と鳩尾がズキズキと痛む。こんな痛みは知らない。そう、こんなに酷い痛みなんか……。
 オレはずるずると床に座り込むと、咳をした。机にぶつかった背中がズキンと疼いた。オレは情けないとは思いながらも、其処で子供みたいに泣く事しか出来なかった。

 オレはサムと二人で保健室にいた。グラウンドがよく見える窓際に、錆びてミシミシと音がするパイプ椅子を二つ並べて其処に座っていた。
 一時間目が終わるチャイムが鳴った。ズキズキと痛む頭に響くからオレは耳を塞いで俯いていた。隣りに座っているサムが優しく背中を叩いた。
 もう教室へは戻りたくなかった。”HELL”の二人をこれ以上見ていられない。もう何も見たくなんかなかった。でも家へは帰れない。こんなカッコで帰ったら兄貴をめちゃくちゃ心配させちまう。
 サムがそっと肩を叩くと優しく笑った。


「大丈夫?」
「おう」
 そう頷きはしたけど、本当は張り裂けそうな胸がズキズキと痛くて、零れ落ちそうになる涙を自力で拭う事も出来なかった。
「あの太陽が本気でオスカーが好きな訳ないよ」
「でも……」
 言いたい言葉は擦れて最後まで言い切れなかった。まるで小さな蟻が川に落ちてもがくけどどうにも出来ずに押し流されていく、そんな風に。
「泣くなよ、輝」
 サムが乱暴にオレの頭をわしゃわしゃと撫でて、それから無邪気に笑って見せた。サムの笑顔に心からほっとして、ぼろぼろと涙がまた零れた。
「今日、太陽と話してみるよ。だから輝はもう帰りなよ」
「ありがとう」
 その言葉がちゃんと伝わったのかは分からない。ただ、涙が止まらなくて、ズキズキと疼く胸の傷をぎゅっと抱きしめた。

 帰り道、オレは一人でとぼとぼと歩いていた。
 兄貴には心配をかけたくないから一人で帰ると言い張って、学校を出たばかりだった。まだ振り向けば校門が見える場所にいる。
 兄貴には心配させたくない。ただでさえ、いつもトレジャーハンターなんて危ない仕事ばっかりやってるんだ。両親だって今何処にいるか分からないからって迷惑を掛けっぱなしなんだ。これ以上迷惑なんて掛けたくない。
 病院で忙しく働いてる時間帯だし、きっと言わなかったらオレが早退したなんて気がつかない。兄貴が帰ってくる頃までに元気に笑えるようになっていれば大丈夫。
 ギラギラと暑苦しくオレを追ってくる太陽は空高くに上っていて、アスファルトからは蜃気楼が立ち上る。生温い風を巻き起こして、一台の車がオレの横を通り過ぎた。
 真っ黒な大きいワゴン車だった。ナンバープレートは偽造しているのか、ぱっと見は分からないけど、俺の目には確かに0を8と誤魔化しているのが分かった。
 ワゴン車は少し離れた所で止まった。オレは気にしない事にしてその隣りを横切ろうとしたけど、急にドアが開いて、車に引きずり込まれそうになった。
 オレは鞄で思い切りその鼻っ柱を殴り飛ばし車から離れた。びっくりしたから、凄い勢いで脈が打つ。
 殴ったのはごつめの男だった。アメリカ人なのか、英語で
「Oh!!」
ってそう言っていた。耳には逆さ十字のピアスをしている。これって、”HELL”の印? 薄手の白いシャツと、黒いスラックスがそれを確信付ける。
 そんな事を考えていると、車の奥からオスカーが顔を出した。
「輝、大丈夫?」
 本気で心配しているのはオレではなく、アメリカ人の男だろうと思わず言いたくなったけど、相手にはしない事にした。
 何を言われても聞こえないフリを決め込んで、そそくさ家に向かって歩き始めた。家までは大分と距離があるけど、走れない距離ではない。
 走ろうか、ゆっくりとこのまま歩こうかと迷っている時だった。オスカーが急にオレの腕を引っ張って
「輝、聞いてるの?」
と低い声で怒鳴ったのだ。
 びっくりしてオレは立ち止まると、オスカーをまじまじと見つめた。怒っているって訳ではないみたいだけど、怖い事に違いはない。「話があるんだ」
 オスカーは車のドアを開けると、オレの前に下りてきた。奥に座っていたサタナエルが面白そうにオレとオスカーを見ているのがチラッとだけ見えた。
 車は少し離れたところにある公園の前まで走って行って、道路の端に寄せるとそのまま止まった。
 オスカーはその車までの距離を縮めるかのようにゆっくりと歩きながらオレに話した。静かで柔らかい口調だったから、オレはそんなに警戒はしなかった。
「太陽ちゃんが好きなんでしょ?」
 オスカーは優しく微笑んで、オレの肩をそっと叩いた。その手をオレはさりげなく振り払うと、少し体を離して道路側を真っ直ぐ歩いた。
「輝は今のままでいいの?」
「今のまま?」
 オレはオスカーの顔を見つめた。
 オスカーは嫌味なんかじゃなく、真剣に言っていた。最近見慣れていた嫌味な顔じゃない、優しい笑顔だった。
「輝は親友でいいの? もっと別の関係になりたくないの?」
「なりたいけど……」
 太陽がオレだけの女になるなんて絶対にあり得ない話だけどさ、オレは本当にそうなればいいって何度も思ってきた。そんなに長い付き合いじゃねぇし、太陽の全てを知ってるって訳でもねぇ。それでも一つだけいるのは、オレが太陽をどうにかして守りたいって心から思っているって事。
 じゃなきゃ、女なんて男の事しか考えてない弱い奴等ばっかりだって思ってきた俺が、太陽みたいなケンカしか取り柄のない男勝りの女なんかと一緒にいる筈なんかない。
 オスカーはニコッと微笑んで、
「”HELL”に付くなら、俺は太陽ちゃんの前から傷つけずに消えてあげるし、輝に協力だってしてあげる」
と優しく囁いた。
「はあ?」
「輝は太陽を自分だけのモノにしたくはないの?」
「え……」
 オレは少し驚いて、オスカーの顔を見あげた。オスカーはオレの髪をそっと撫でると優しく微笑んでみせた。まるで大丈夫だって言い聞かせるかのように。
「断るのは輝の勝手だけど、その時は遠慮なく太陽ちゃんを俺が可愛がらせて貰うから」
 オスカーはにこっとさわやかに笑って、立ち止まった。少しすまなさそうに俺の顔を見つめて、
「恨まないでね、俺だって仕事なんだから」
と優しく言った。
 オレはオスカーをじっと睨み付けた。少しの怒りと悔しさが混じっていたけど、オスカーはまるで気がついていないような顔をして笑った。
「”HELL”につく? つかない?」
 オスカーは優しくオレに問いかけた。
 オレにはまるで選択肢がないのを分かりきった様子での強気な笑顔だった。オスカーは満足そうに胸を張ってオレの顔をじっと覗き込んだ。
 もう、どうしようもない。オレは太陽が傷つくなんて絶対に嫌だ。いつもオレはアイツを守りきれないし、アイツがつらい時も何もしてやれない。
 オレに今、出来る事は一つしかねぇじゃねぇか。何を躊躇ってんだよ、前を見ろよ。
 オレは真っ直ぐ顔を上げると、オスカーを真っ直ぐ見据えてこう言った。
「いいぜ、”HELL”につく」

 オスカーに連れて来られたのは、空色町の端にある小さなアパートだった。零が前に空色中に通う為に住んでいたアパートの近くだ。表札は『菅』になっている。
 オスカーに言われて、オレは鞄とケータイをオスカーに渡すと中に入った。サタナエルが先に中に入って行くのを黙って見ながら、オレは後ろを気にした。
 後ろにいるのは三人の男。どれもバラバラの言語でしゃべっている所からして、腕のみを見て”HELL”に勧誘したらしい。
 オスカーが後ろからオレの背中をぐいぐいと押す。早く入ってと急かしながら、鞄を誰かに渡したのが視界の隅に入った。ああ、本だけは確保しといたらよかったなぁ。兄貴に貰ったお気に入りだったのに。
 そんな事を考えながら中に入ると、オレは靴を脱いで奥へと案内された。緑色の真新しい畳がひんやりと冷たくて気持ちがよかった。
 部屋は五つあるらしい。
 一番広いリビングの部屋とその奥に続く風呂とトイレらしい奥の部屋。その隣りにある小さな小部屋二つがオスカーとサタナエルの部屋らしい。そしてその二つの部屋の間にある小さな小部屋。
 オレはその小部屋に連れて行かれた。
 窓の下は日本一汚いと有名な大和川も真っ青な溝川があった。とてもじゃないけど脱走は出来そうにない。オマケに部屋は三畳ほどの広さしかないのに、布団がしきっぱなしだ。
 オスカーとサタナエルがオレを布団の上にいきなり突き飛ばした。
 オレが起き上がった時にはドアが閉められていて、オスカーがオレを羽交い絞めにしていた。そして、耳元でそっと
「じっとしてて」
と囁いた。
「何のつもりだよっ、放せ」
 オレはオスカーを振り払おうとしたけど、オスカーの力はオレよりもずっと強くてどうにも出来なかった。結局諦めて、大人しくするしかなくなった。
「オスカー、いい?」
「いいよ」
 オスカーはサタナエルに向かってそう返事をして、オレに囁いた。
「暴れたら危ないから、じっとしてなくちゃ駄目だからね」
「ふざけんなっ」
「暴れたかったらどうぞご勝手に。でも太陽ちゃんの事は保障しないよ」
 オスカーはそう笑ってからオレから手を放して、サタナエルと顔を見合わせた。オスカーはティッシュを持っていて、それをオレの耳に近づけた。
 太陽の事で”HELL”についたのに、太陽に何かがあったら何の意味もない。悔しいけど、オスカーに従ってるしか手はないんだ。
 オレは大人しく俯くとそっぽを向いた。オスカーはひんやりと冷たい何かで、オレの耳朶を拭いた。
「オスカー、これも頼んでいい?」
「いいよ、任せて」
 オスカーはそう返事をすると、何かをオレの耳に挟んだ。冷たくて、尖っているのを感じる。
 何をしようとしているのかは分からないけど、大人しくしていなくちゃ太陽が……。怖いけど、立ち向かわなくてどうするんだよ。自分で此処へくるって決めたんだから。
「輝、後悔しないね?」
 オスカーの質問に、オレは躊躇わずに答えた。
「するもんか」
と。
 その後すぐに、カチッと音がして、何かが耳朶を貫通するのを感じた。同時にズキっと痛くて、オレは歯を食いしばった。
 オスカーは何も言わずに耳朶に何かを通して、
「もういいよ、大丈夫?」
と笑った。
 オレは真っ直ぐ耳に手をやった。
 何だろう、少し長くて十字に尖った物がぶら下がっている。重くはないけど、気持ちが悪い。外そうとしたけど、どうしたら外れるのかも分からないし、ズキンと痛みを感じて触るのをやめた。
「ようこそ、”HELL”へ」
 サタナエルがオレに小さな手鏡を差し出して言った。
 
 翌日、オレは学校を休んだオスカーとサタナエルに連れられて、大阪国際空港まで連れてこられた。何処から持ってきたのか、オレの偽造パスポートまで用意されていた。
 オレは常にオスカーに監視されていて、空港の中を歩く時もべったりと後ろをついて歩かれた。それだけ逃げられたらマズイ事でもあるのか、オレが”HELL”にとって大事な存在なのか、分からないけど困るのは確かだ。
 オスカーはいたって普通の航空機にサタナエルとは別に乗った。日本人観光客とアジア系の人達がいるのを黙って見ながら、オスカーの隣りに腰を下ろした。
 オスカーがオレに英語で話しかけた。聞かれちゃ困るような話なのかと思って、オレは黙ってオスカーを見た。
「Hikaru , Don't run.」
「Oh , I know.」
オレは大人しくそう返事をして、目を閉じた。太陽やサムがいないんなら起きてる意味すらないし、オスカーと特に話す事もない。
 オスカーが隣りで何かを読み始めるのをぼうっと眺めながら、オレは眠った。

 オレが目を覚ましたのは飛行機が完全に止まってからだった。目を開けるとオスカーが呆れた顔で、荷物を片手にオレを覗き込んでいた。
「輝、行くよ」
 オスカーに引っ張られて、寝ボケ眼のオレは真っ直ぐ飛行機を出た。途中何度か転びそうになったけど、オスカーがその度に助けてくれたから転びはしなかった。
 空港の中を歩いている人々は皆、日本語や英語とはちょっと違う言語で話をしている。アジア系の人が沢山いるから、多分アジアの中だろう。少なくとも中国や台湾ではないのが確かだけど。
 オスカーはオレを引っ張ってどんどん寂れているスラム街の方に歩いていく。オレは躊躇いながらオスカーの後ろを追いかけて歩いた。
「此処は?」
「カンボジア」
 オスカーはそう一言言うと、それ以上は何も言わずに、真っ直ぐ歩いていく。そして、オスカーが立ち止まったのはスラム街の奥にある、小さなボロイ建物だった。
 オスカーは其処のドアを開けると、オレを先に中に入れた。オレが何か言おうとする前に押し込むと、自分もさっさと中に入ってドアを閉めると鍵を掛けた。
 中は意外ときれいなつくりだった。
 どうやら建物全体を”HELL”のアジトとして使っているらしい。元は小さなアパートだったらしく、部屋が沢山ある三階建ての建物だった。
 いろんな人種のいろんな人間が其処で生活しているのがすぐに分かった。それと同時に、皆結構楽しそうにしているのも。サタナエルの事だから皆に嫌われているのかと思っていたけど、そんな事は全然ないらしい。オスカー
と一緒に歩いていたオレにも、明るく挨拶をしていた。何語かは分からなかったから、返事はしなかった。
 オスカーは真っ直ぐと階段を上がって一番上の大きな部屋に向かった。階段をあがっている最中にも何人かの男の人とすれ違ったけど、皆嬉しそうに笑ってオスカーに手を振っていた。
 階段を上りきった所にはサタナエルがいた。オレとオスカーをニコニコしながら出迎えて、部屋に案内してくれた。
 部屋は何もない狭い部屋で、ホテルの一室みたいにトイレやお風呂までついていた。とはいえ、部屋にあるのはきれいなベッドと小さなソファーと机、火の灯ったランタンだけだった。
 サタナエルはオスカーに英語で何かを言ったけど、日常会話以上の事は何を言ってるのか分からない状態のオレには分からなかった。
 オレは部屋に一つだけある窓の方へ歩いていって外を見た。
 窓には鍵が掛かってたけど、それは中からも開ける事が出来た。でも下を見てすぐに、オレは頭を引っ込めた。オレの目に入ったのは紛れもない、大きくて深そうな川だったからだ。
 そう、オレが逃げられない部屋を選んで案内したんだよ。あの二人。
「輝、此処で大人しくしててね」
「なっ?!」
「ほら、本は返してあげるからさ」
 オスカーはそう笑ってオレの手に本を押し付けて、部屋を出ようとドアに向かっていく。
「待てよ、オスカーっ」
「また来るから。ね?」
 オスカーにそう言いくるめられた。仕方がないから、オレは大人しくベッドの上に腰を下ろして本をぎゅっと握り締めた。そうしていれば少しは落ち着くような気がしたから。
 でも、すぐにオレは後悔した。少しでもオスカーやサタナエルを信用した自分の馬鹿さ加減にも本気で腹が立った。あの二人が約束なんか守る筈がないんだって、どうして始めに気がつかなかったんだろうって本気で思った。
 オスカーは部屋を出てすぐに部屋のドアに外から鍵を掛けたのだ。それも三つ。まず間違いなくこの部屋から出る事が出来ないようにって、そういう意味での鍵だったんだろう。
 オレは本を放り出して、ドアを叩いた。
「おい、開けろよっ」
「じっとしててって言ったでしょ?」
「だからって鍵を掛けるなんて……」
「本だって渡したでしょ? 大人しくしてて」
 オスカーは冷たくそう言い放つと、ドアの前でサタナエルと予定について話し始めた。オレは悔しくて仕方がなかったけど、黙って二人の会話に耳をすませた。
「ねぇ、オスカー。太陽ちゃんをどうにかして殺したいんだけど」
「ええ〜、何も其処までしなくたっていいじゃん」
「でもあの子は死に掛けてもトレジャーハンターをやめないんだよ? 殺すしかないじゃん」
 何処か楽しげなその声に冷や汗が流れるけど、オレは声を殺してドアに耳を押し付ける。自分の体温よりも少し冷たいドアが自分の冷や汗で濡れていた。
「足をブッた切っちゃえば?」
「ああ、それはいいかも♪」
 オレはぎょっとしてドアを叩いた。オスカーとサタナエルに向かって何度も何度もやめろって怒鳴る。でも、二人は聞こえていないかのように話を続ける。
「足がなかったら太陽ちゃんも満足に暴れる事は出来なくなるし、サムや零ちゃんを傷つけるには最適じゃん」
「確かに、それならスカイブルーは崩壊する」
「そんでもって、無駄に殺さなくて済むでしょ?」
 オレはドアを力いっぱい叩いた。でも声は届かない。オレの考えやオレの思いはドアに阻まれてドアの向こうへは届かないんだ。
 溢れ出した涙が視界を曇らせるけど、オレは目の前にあるドアだけを必死で叩いた。急にそんな無力な自分が情けなくなって、オレは床に座り込むと、泣くしか出来なくなっちまった。悔しくて苦しくて、でも無力なガキのオレにはこの部屋から何とか逃げ出す事も太陽の事を思って涙を流す以外の事は何も出来ないんだ。
 急に胸がぎゅっと締め付けられるような感覚に襲われた。涙が一粒床に流れ落ちる。その音がまるで部屋にこだましているかのように、オレの耳に聞こえた。それがますますオレの胸を苦しめる。
 一体何の為にオレは”HELL”なんかに協力したんだろう? 協力したって何の利益もないのは分かりきってる事だったじゃねぇか。あの二人が、太陽から黙って手を引くなんて事ある筈がなかったんだ。
 だったらどうしてオレはこんな所に閉じ込められて、一人きりで泣いてなくちゃいけねぇんだよ? どうしてオレは”HELL”に協力なんてしたんだよ?
 そうだ、太陽を守りたかったんなら、”HELL”なんかにつかず、命張って太陽を守り通せばよかったんだ。あの馬鹿の後ろをいつでも何処でもついて歩いて、オスカーやサタナエルから守ればよかったんじゃねぇか。自慢のボクシングの腕や空手、合気道がオレにはあるじゃねぇか。
 それなのにどうして、オレは自分を信じて戦おうとはしなかったんだろう?
 オレにギターを教えてくれたストリートのお兄ちゃんも歌ってたじゃねぇか。
『頼れるのは己のみ』
って。
 なのにどうして……どうしてオレはこんな所で一人泣いているんだよ? 太陽を守る為にやろうとした事が、太陽を傷つけようとしているのに。
 オレはドアをもう一度だけ叩いて、嗚咽に掻き消されそうな声を張り上げた。
「太陽には手を出すなっ」
 その声がオスカーとサタナエルに届いたのかは分からない。でも、それと同時にオレの中で涙を塞き止めていた筈のダムが一気に決壊して、涙がぼろぼろと溢れ出した。それをどうする事も出来ないまま、オレはドアの前に座りこんで泣きじゃくっていた。

 気がつくと、オレはオスカーに背負われていた。暖かくて心地よく感じていた筈のその体温に、オレは嫌悪を感じてオスカーから離れようと暴れた。
「気がついた?」
 オスカーはそっとオレを下ろすと、黒いミラーガラスの車にオレを押し込もうと腕を掴んだ。
 悪事を企んでいる訳じゃないのは確かだけど、オレはそんなオスカーの笑顔に裏があるんじゃないかって思うと怖くて仕方がなかった。あんなに楽しそうに太陽を片付けようと話をしているのがますます怖くって仕方がなくて……。
 だからってちょっとやそっと暴れたくらいじゃオスカーは振り払えない。
 オレは結局車に押し込まれ、両手をガムテープで縛りつけられた。歯で外そうとしたけど、頑丈に巻かれていて全然外れない。
「じっとしてて」
 オスカーはにこっと微笑むと、オレの口にレモン味の甘いキャンディを入れた。何か薬が入ってるんじゃないかって思ったけど、吐き出す前に口にガムテープを貼られてしまった。
「オスカー、用意はいい?」
 サタナエルが助手席から身を乗り出して笑った。オレはその笑顔にムカついて睨み付けたけど、完全に無視された。
「賢治、サムは?」
「いるいる。約束どおりの場所にね」
 オスカーはオレを座らせると、窓の外を指差して
「見える? サムがいるよ」
と笑った。
 オスカーが指差した場所には太陽とサムが二人で立っていた。何を話しているのかは分からない。でも確かに、二人は其処にいる。
 其処は見覚えのあるアンコール・ワットの大きな建物が見える位置だった。太陽とサムはその遺跡に入る為の入り口付近に立っている。観光客が多くて、こっちにはまだ気がついていないらしい。
 どうやら兄貴や零は一緒じゃないらしい。見渡す限り観光客だらけなのは確かだけど、その人ごみに紛れて二人が隠れているのは見つからなかった。まあ、確かにあの二人はよほどの事がない限り、足手まといでしかないけど。
 サタナエルはオレとオスカーににっこりと笑いかけるとサングラスを掛けた。そしてゆっくりと、でも確かに車から降りて二人のいる場所へと歩き始めた。
 オレは不安で仕方がなくてオスカーを押しのけて暴れたけど、太陽とサムがオレに気がつくとは思えない。気がついたとしても、あの車にはじっと出来ない小さな子供が乗ってるんだろうな程度にしか思わないだろう。まさかオレがその車に乗っているなんて夢にも思いもしないだろう。
 オレが必死で外に目を凝らしていると、サムに向かってサタナエルが笑いかけた。かなり怖い顔をした太陽に睨みつけられながら、サタナエルは何かを二人に話す。何なのかは全く聞こえないけど、太陽が真剣にその話を聞いているところからして重要な話らしい。
 サタナエルがこっちに向かって指をさした。何をしているのかは分からないけど、太陽とサムがこっちを確かに見つめた。太陽はにこっと微笑んで、オレにウィンクをしてみせる。どうやらオレに気がついたらしい。
 にしても、アイツは一体どんな目をしているんだろう。この車の窓ガラスはミラーガラスなんだぞ。しかもあんなに離れた所にいるってのに、太陽には確かにオレの姿が見えているらしい。
 オスカーが少し心配そうな顔をして、オレに囁いた。
「輝、どんな事があっても下手に賢治に逆らっちゃ駄目だからね」
 返事もマトモに出来ないオレはオスカーの顔を見ようと振り向いた。でも、オスカーは何事もなかったかのように真っ直ぐとサタナエルを見つめている。それと同時に悲しそうな目をしていて、オレには分からなかったけど懐かしいものでも見ているみたいだった。
 オレがオスカーから太陽とサムに目を戻すと、サタナエルが車のすぐ近くまで来ていて太陽とサムを連れているのが見えた。
 サタナエルはオレとオスカーが座っている後ろのドアを開けて(どうやら中からは開けられないようになっているらしい)、太陽とサムに見せる。何処となく、その動作がぎこちないような気がしたのはオレだけだったのかもしれない。でも、サタナエルは二人がオレを見ようと覗き込むと、凄く嬉しそうににんまりと笑ったのだ。
 でも、二人はそんな事には気がつかないまま。凄く心配そうな顔をしてオレを見ている。オレも太陽が無事なのを確認して凄く安心したけど、後ろでサタナエルが何かを振り上げるのを見た瞬間、二人に向かって叫んだ。
「危ないっ」
って。でもその声はちゃんと届かないまま。しょうがねぇじゃん。口を塞がれてるんだぜ? んんんんっ!!とか叫んだって伝わる訳がねぇ。
 でも、太陽はサタナエルが振り上げていた杖をあっさりと片手で受け止めていた。サムはいつ出したのか、早過ぎて分からなかったけど銃を握り締め、オスカーの額に押し当てていた。
「オスカー、輝を放してくれる?」
 サムの声は凄く低く、オスカーはびくびくしながら両手を挙げて後ろへと下がった。サムはオスカーをじっと見つめたまま、太陽にはっきりと言った。
「早く賢治を黙らせて」
「分かってるって」
 そうだ。この二人はチームワークが無駄にいいんだった。太陽はいつ、どんな時でも無敵のクイーンで、サムは銃を持つ事でプロモーションできるポーン。オレと違ってサムは近距離も遠距離も担当出来る凄い駒だ。近距離型のオレや太陽を後ろから守る事も、近距離で銃を使う事も出来るんだ。
 確かに、太陽や零が加わる前はオレとサム二人での事が多かった。あれを成り立たせてたのも、007顔負けの銃士だからだ。ただ、一人でトレジャーハンターやるにはちょっとばっかり無理があるってだけの理由でオレを誘ったんだし……。
 サムはカッコよくニカっと笑って見せると、サタナエルの鳩尾にかなり重そうな肘鉄を食らわせた。
「俺には銃しかないなんて馬鹿な事を考えてたんなら無駄だよ、オスカー」
「サム、カッコいいじゃねぇか」
「ありがと、太陽のおかげだよ」
 太陽がオレの口から乱暴にガムテープを剥がして、腕のガムテープに手を掛けた。
「大丈夫かよ?」
「ああ」
 すると、サタナエルが急にサムの頭を杖で思い切り殴りつけた。近くにいた観光客達が大声を張り上げて走り出す。サムは後頭部から血を流して太陽の背中にぶつかった。サムの血がぽたぽたとオレのシャツを汚した。
 太陽がサムの体を支えようとするのを見て、オスカーがオレの腕を引っ張った。そして太陽の肩を思い切り突き飛ばすとサタナエルを車に引きずり込んで、乱暴にフランス語っぽい言葉で怒鳴った。なんて怒鳴ったのかなんて、翻訳機がなくたって分かる。
『早く出して』
だ。
 ドアを閉めようとしたオスカー越しに太陽は怒鳴った。
「ぜってぇ助ける」
オレはそんな太陽の優しく強い瞳に感謝しながら、小さな涙を一つだけ零した。もう絶対に、”HELL”の為にだけは泣かないって、そう誓いながら。

 オレは相変わらず部屋に閉じ込められていた。
 オスカーとサタナエルが置いて行った紅茶菓子とティーバッグのセットはもうほとんど包み紙だけの状態で、連続で五回も読んだおかげで全文を暗唱出来そうになってきたお気に入りの本を小さなテーブルの隅に乗せた。
 窓の外に見えるのは古く寂れたスラム街の子供と時々立ち上る爆弾みたいなものが爆発する煙だ。薄暗くなってきた空をますます黒く染めていくのが見える。オスカーがカンボジアだって言っていたから、きっと地雷か何かなんだろうなぁと思いながらオレは膝を抱えた。
 何で戦争なんてするんだろう。
 争うのは勝手だ。ああ、勝手だよ。でも何で、関係のない人まで傷つけるような地雷を埋めるんだろう。そして、必要がなくなったって言うのに、今も地中で誰かが踏んでくれるのを待っている。
 どうせ争うなら、気が済むまで拳でやりあえばいいじゃねぇか。確かに相手が素手じゃなかったなら仕方がないかもしれない。でも、現にオレや太陽は素手で銃を持つオスカーとやりあって勝ってる。
 昔、剣道の先生が言っていた。
 武器って言うのは人を守る為に強くなりたい、そんな時に握るものなんだって。決して人を傷つける為の物じゃない。弱い何かを守る為に力を貸してくれる物なんだって、オレは習ったんだ。
 それと同時に、先生はこうも言っていた。
 武器で得た力は、時に人を傷つける為だけに使う馬鹿な連中の手に渡る事もあるけれど、決して強い信念を曲げる事は出来ないんだって。銃を使うサムを悪く言う訳じゃないけど、武器を持つ時にはそれなりの覚悟が必要なんだよ。武器のくれるちっぽけな力に操られて、人を殺したりするのは覚悟が脆かった結果。そんな弱い心しか持ち合わせていない連中に、強い心は負けやしないんだって。
 オレはその言葉を信じて、強くなろうって決めたんだ。教室で馬鹿みたいに傘を振り回す馬鹿を、素手で打ち破れるようになろうって。
 どうして大人達はそれに気がつかないんだろう。
 戦争をして最前線に立って戦うのは、悲しい運命を背負った人間達だ。自分達は暖かい所で命令するだけだから気がつかないのかもしれない。地位っていう武器のちっぽけな力を過信して、自分でケンカも満足に出来やしないのに偉そうにしている。
 オレはいつか必ずそんな連中を打ち破りたい。武器なんかいらない。拳があればそれでいい。弱い心を守る為だけに握った銃なんか、この手で叩き潰してやれるように。
 オレはそんな事をぼんやりと考えながら、ドアの前まで歩いた。
 暇だから外の様子でも偵察しようと思って。
 でも聞こえるのはオスカーとサタナエルの声だけ。二人はドアに凭れているらしい。声が凄く大きく聞こえる。それ以外に聞こえてくるのはばたばたという忙しそうな足音だけ。
「謎、解けそう?」
 サタナエルがオスカーに向かって言う。何の謎だろうと思って耳をすませる。
「『アンコール・ワットの神達が笑う下には輝きが溢れる』ってヤツでしょ? ちっとも」
 アンコール・ワットの神達か。
 得意の宗教系だけど、オレもあんまり詳しくは知らない。オレの専門は宗教美術だし、身分で差別するなんて宗教はあんまり好きじゃない。確かに人を元気付けるような宗教(例えばユダヤ教とか。選民意識まではいきすぎかもしれないけど、ユダヤ人が元気を出したのは間違いない)は好きだけどさ。
 一応、あの周辺がアンコール王朝の都で、アンコール・ワットは宗教施設で、王朝のシンボルだった事は分かっている。確か、ヒンドゥー教の寺院として有名だ。クメール・ルージュに派手に壊されたりもしたから、未だに復旧作業中だったっけ? 
 そうそう、思い出した。クメール・ルージュにアンコール・ワットを荒らされた時に其処にあった神様の像はどれも首を落とされて潰れちまった筈だ。いつの時代に残された謎かは知らないけど、今更どうやってそんな神様の下を探せって? 大体、元々あった筈のヴィシュヌ神(ヒンドゥー教では最高位の神様なんだけどさ)の像はそれ以前に四体の仏像に置き換えられているんじゃなかったっけ?
 探したくても探せないに決まっている。ヒンドゥー教は多神教だし、イスラム教やキリスト教みたいに簡単には見つからないだろう。大体、どの神様なのかが分からなかったらどうしようもないじゃねぇか。
 すると急にドアの鍵がガチャンと外れた。ゆっくりとだけど、確かに一つ外れて、また一つ外れた。
 ヤバイ、盗み聞きしてるのがバレた? 
 オレは急いでトイレに駆け込んでドアに中から鍵を掛けた。絶対、オスカーに殴られるか何かして、宝は何処なのって怒鳴られるのが目に見えてる。
 ドアが開く音がした。オスカーがオレの名前を呼ぶ声もする。
 蝋燭を持ってくるのを忘れたから真っ暗な狭いトイレは、一度も使った事がないのか、何の匂いもしない。暗すぎて何も見えないけど、不思議と怖くもない。自分の手もちゃんと見えないっていうのに……。
 オレはオスカーに向かって叫んだ。
「今ちょっとトイレなんだけど」
「何言ってるの、聞いてたんでしょ?」
「何を?」
 何とかして誤魔化さなくちゃと思っている時だった。
 ドアの上の方を何かがが突き抜けた。それと同時に響く銃声。ぱらぱらと頭に降ってきたドアの一部に咳が止まらなくなる。それなのに、冷や汗が流れて木屑がくっつく。
 オスカーが言った。
「今度は足元をブチ抜くよ、さっさと鍵を開けて出てきたらどう?」
「出るっ、出るから」
 オレは震える手で何とか鍵を開けようとするけど、全然上手く開かない。ついさっき、武器なんかに負けててどうするんだって思ってた筈なのに、怖くて仕方がない。
 オレが何とかトイレを出ると、オスカーではなくサタナエルがまず目に入った。どうなってるのか分からなくて、呆然としていると後ろから背中に銃口を押し当てられた。まだ熱い銃口が、ついさっきの弾はコイツが放った物だって教えてくれる。
 オスカーは耳元で小さく囁いた。
「輝、宝は何処なの?」
「だから何の?」
「今更知らないフリしたって無駄だよ、死にたくなかったら正直に言って」
 オレは考えた。
 「カンボジアの神達」って事は、一つじゃない筈だ。沢山の神様がいて、「下」って事は床がある筈だ。少なくとも、アンコール遺跡は壁のレリーフが神様だし、絞り込むのは不可能だ。一番有名なのは第一回廊だけど、回廊はめちゃくちゃ長い。全部調べるなんてとんでもなく時間が掛かる。ムリだ。
「分からない」
「はあ?」
 サタナエルが銃を引き抜くのが見えたから、オレは正直に全部話した。本当は話したくなんかなかった。悔しかったけど、でも此処で死んでる場合じゃねぇんだから。
 二人にはこう言った。
 回廊だけを探すにしても時間が掛かりすぎる。見つかる筈がないって。今までいろんな人が其処を通ったり発掘したりしてるんだ。それなのに見つからなかったような宝物が、ちょっと探したくらいで出てくる筈がない。
 オスカーはオレが話を終えると、黙ってオレを突き飛ばした。かなり乱暴で、サムとは桁違いの力だった。本当にオスカーってサムの双子の弟かよ? 確かに顔は似てるけどさ、信じらんねぇんだけど。
 オレは無様に床にしりもちをついて顔を上げた。さっきまで押し当てられていた銃口の感触がまだしっかりと残っていて、冷や汗が止まらない。額を濡らしていた汗が頬を伝って床に落ちた。
 サタナエルがオレの前にしゃがみこんだ。銃は今の所、オレに向けちゃいないけど逆らうのはよくないと悟った。オスカーがあの時、サタナエルに逆らうなって言っていた理由が分かった気がした。
「ねぇ、何か見つけられるような印とかは?」
 サタナエルが少し怖いくらいの優しい笑顔を浮かべて、オレの顔を覗き込む。仕方がない。分かる事は全部言うしかない。
「分からないけど、ヴィシュヌ神の化身みたいなのは分かるよ。魚とか亀とか猪だけど」
「つまり、魚とか亀を探せばいいんでしょ?」
「あ、でもアヴァターラは十種類だから」
 ああ、やっちゃった。専門的な言葉は使わないつもりだったのに。
「アヴァターラ?」
「化身の事。ヴィシュヌ神が地上に現れる時はそれらに変身してるって考えられてるんだよ」
 オレはきちんと座ると、オスカーとサタナエルを見た。二人は真剣にオレを覗き込んでいる。
「十種類、全部言ってよ」
「そんなによく覚えてねぇよ」
「覚えてる限りでは?」
「確か、半分ライオンの人間と、斧を持ったラーマ、小人、ラーマ、クリシュナ。あとなんだったけなぁ……」
「何の事かさっぱり分からないんだけどさぁ、分かるように説明してくれる?」
 オスカーがオレの顔を覗きこんで言った。また発砲しかねないから、オレは大人しく話をまとめようとする。
「何が分からなかった?」
「ラーマって何? 小人とかクリシュナとか意味不明なんだけど」
「ラーマーヤナってしらねぇ? 叙事詩なんだけど。其処に出てくる英雄がラーマ。小人はファンタジーの物語によく出てくるドワーフの事。クリシュナは確か、叙事詩マハーバーラタの英雄」
 オレはうろ覚えの知識を何とか吐き出して、黙ってメモをしているサタナエルを見た。
「でも、それだけじゃ何も……」
「十分役に立ったよ。ありがとう」
 サタナエルはオレの頭をぽんと叩くと、ぶつぶつと考え事をしながら部屋を出て行った。何をしているのかなぁと思いながら、オスカーを見た。
「輝、大丈夫?」
「え?」
「弾、当たってないよね?」
「当たってないけど」
「よかった」
 凄く嬉しそうに笑って、オスカーはオレの肩をぎゅっと抱き寄せた。本気でオレの事を心配していたらしい。何度もごめんねと繰り返し誤られたから、怒る気も失せちまった。
 オスカーは何かを隠しているらしい。サタナエルに握られている弱みとも関係があるらしいけど、何の事なのかはあんまりよく分からない。
 オレはオスカーに何を弱みとして握られているのかを尋ねようとした。でも、口を開くよりも先に、サタナエルが凄いはしゃいだ声で
「オスカー、早く来て」
と叫んだ。おかげで聞けなかった。
 オスカーはオレを引っ張って、一回へと階段を降り始めた。あんなふうに謝られたら、オスカーを振り払って逃げる訳にも行かない。
 オスカーと一階まで降りると、サタナエルは大きな車に何人かの男の人達と一緒に、もう乗って待っていた。オレとサムは、一番後ろの席に座った。
「賢治、謎は解けたの?」
「うん、第一回廊の東側に、乳海攪拌っていうレリーフがある。ヴィシュヌ神の化身の亀と神々、そして阿修羅が描かれてる。多分其処だと思う」
「あっ、そっか」
 いきなりその答えに反応したオレは考えた。確かにそうだ。でも、あのレリーフは五十メートル以上はあるんじゃなかったっけ? どうやって探すつもりなんだろう。
 宝は輝きが溢れるようなものだけど、一体何が埋まっているっていうんだろう。
 オレが思うに、本当はそんなもの、埋まってないんじゃないだろうか。だって、ヴィシュヌ神のアヴァターラの一つのクリシュナって、闇って意味があるらしいし。見つかったのはこの世を包み込むような闇となりうる何かって可能性だってある。
 でも、オレはあえてそれは言わなかった。キレたサタナエルに下手に殺されたりはしたくないし、もしかしたら本当に何かが埋まってるかもしれないからだ。もし見つかっても闇取引に使われるくらいなら、オレが盗み出して博物館に渡してやる。
 車の時計は午後十時を指している。どうやってアンコール・ワット内に入るつもりだろう。一応寺院だから其処にいる僧侶達にバレる可能性は十分にある。
 でもサタナエルは気にもしないでアンコール・ワットの東側へ車を止めて、オレを引っ張った。
「いい、此処でオスカーとスカイブルーの連中が来ないか見張ってて」
「え?」
「邪魔されると面倒なんだよ」
 サタナエルはそれ以上何も言わずに、何人かの男を連れて、周壁を登って向こう側へ姿を消した。
 オレはオスカーが車に戻って座ったから、大人しくその隣りに座った。本当は聞きたい事が沢山あったんだけど、訊くに訊けない雰囲気だったから黙っていた。
「輝、ちゃんと見てなよ」
「ああ、うん」
 オレはじっと音を眺めていた。
 しんと静かな辺りと夜の闇。大きな堀の水が風に揺れる。オレはそれをじっと眺めながら、どうしようもないくらい悲しいと感じた。
 アンコール・ワットがそうさせるのかは分からない。でも、仲間を裏切ったり心配させたりしてる事実にむちゃくちゃが腹が立ったんだ。スカイブルーのトレジャーハンター達がオレを心配しているのに、自分はこんな所で暢気にサタナエルの手伝いなんかしている。
 大事な人を守りたかったのは事実だけど、でもその為にオレはいろんなものを犠牲にして、結局守る事すら出来ていないんだ。
 そんな自分が許せなくて、悔しくて、泣かずにはいられなくなっていた。太陽やサム、零や兄貴を思い出す度にその涙は増える一方だった。
 武器に操られない強い心なんて、オレは持ち合わせちゃいなかったんだ。親友達を守るだけの強さも武器の前には小さくなるばかりで、信念なんかちっとも貫き通せやしなかった。
 オレが目をごしごしと擦っていると、急に車のドアが開いた。
「輝、大丈夫か?」
 その声は確かに太陽だった。女の子らしくない少し低めの強い声。懐かしくてオレはその声の主を見るなり、どうしていいのやら分からなくなっちまった。
 太陽はその近くにいた男を皆気絶させていた。それも物音がしなかった所からして、一瞬の事だったんだろう。
「悪いな、オスカー。輝は連れて帰らせてもらうぜ」
 太陽がそう笑って、オレの腕を掴んだ。
 真夜中のアンコール・ワットを照らしているのは月だけの筈だったのに、太陽が真っ暗だったオレを照らしてくれてる。不思議と、太陽の言葉に凄く元気付けられる。さっきまで消え掛けていた筈なのに、いつの間にかまた燃え上がり始めた勇気がオレに泣き言を許さなかった。
「オスカー、オレは行くからな」
 オレは太陽の肩ごしにそうオスカーに怒鳴った。
 でもオスカーは一言
「ふ〜ん」
と呟いただけ。なんだかつまらなそう。
「輝、忘れてるみたいだから言っておくけど”HELL”に逆らうようなら」
「うっ……」
 そうだった。太陽を傷つけられるのだけはごめんなんだった。
「嫌なら、さっさと太陽ちゃんを追い払って」
 オスカーははっきりとそう言うと、ポケットに手を突っ込んだ。銃を出すつもりかと思って身構えていると、オスカーは何かのキーホルダーを引きずり出して、何かを押した。
 その瞬間、耳がズキっと痛んで、オレは座り込んで耳に手をやった。ちょうどピアスをしているあの穴だった。ぼたぼたと流れた血が手を濡らした。何が起こったのかも分からなかったけど、痛くて喚いてるしかないのは確かだった。
「輝っ?!」
 太陽がオレの肩をぎゅっと抱きしめた。心配そうなその顔を見ていると、追い払えなかった。このまま死んでもいい。太陽を傷つけたくなんかない。
「輝、これ以上痛い思いをしたくなかったら、さっさと追い払って」
 急に痛みは引いて、オレは肩で息ををしながら顔を上げた。泣き出しそうな顔をしてオレを覗き込んでいる太陽の肩をそっと抱いて、オレは深呼吸をした。
 痛い思いだって本当はしたくない。でも太陽を傷つけるようなマネだけはしたくない。だったらオレに出来る事って一つだけだろう? 大事な親友達を守る為だったら、オレがどう思われようと構わない。悪魔と蔑まれようと、それで皆が助かるのならやってやる。
 オレは太陽の髪をそっと撫でると、そのほっぺたにそっとキスをした。柔らかくて気持ちがよかった。でもオレはすぐに太陽を突き飛ばして立ち上がった。そして太陽の顔をじっと覗きこんで
「オレはもうスカイブルーには戻らない。足手まといのポーンなんてもういらない。全ての駒がクイーンの”HELL”がオレの居場所だ」
とゆっくりと囁いた。
 太陽が泣き出しそうな顔をするのを黙って眺めて、にこっと微笑んだ。本当はどうしようもないくらい苦しかったけど、太陽が助かるんなら構わないとそう言い聞かせて、拳を握り締めた。
「男みたいに振舞ってる弱い女にはもう飽き飽きしてんだよ。さっさと日本へ帰れ」
 その一言がどれだけ太陽を傷つけたのかは見なくたって分かった。だってアイツ、嗚咽をあげてたんだぜ? オレがちょっとそう嘘を言っただけで。
 座り込んだまま、泣いていた太陽はオレがもう一度睨み付けた所で、じりじりと後ろへと退いた。涙が地面に流れ落ちるのを見ているのは辛かったけど、黙ってそんな太陽を見つめていた。
 オスカーが車から降りてきて、オレの肩を叩いた。
「太陽ちゃん、分かったらさっさと帰りなよ。死にたくないでしょ?」
そういいながら、オスカーは右手で銃を持ち上げて真っ直ぐ太陽に向けた。もっとも、泣いてた太陽には銃が見えてはいなかったみたいだったけど。
 オスカーがセーフティを外すかちんって音がして、オレは少しドキッとする。もしかして、真面目に撃つ気じゃねぇよな? そんなヤだぜ。
 その時、零がオスカーの手を蹴り飛ばすのが目に入った。手には太い木の枝を握っている。
「オスカーさん、私に素手で勝てますか?」
 オスカーは笑って首を横に振って見せた。でも、それと同時に零の腕を掴んでいた。
「でも、これで零は俺に手も足も出せないよね?」
 太陽の前にサムがしゃがみこみ、何かをしてるのが見える。サムは素手だ。絶対にこの馬鹿みたいな状態じゃ、スカイブルーに勝ち目はない。
 少なくとも、太陽がもう一度戦えるような状態にしないと。でも、そんな事をしたんじゃ、太陽は”HELL”に何をされる事か。俺が向こうにつけば、”HELL”はきっと暗殺者を雇って太陽を殺そうとするだろう。
 此処はオレがどうにかするしかない。
「零、さっさと帰れ」
 オレはオスカーと零の間に割り込んで囁いた。オスカーが零から手を放すのを黙って見てから、零の鳩尾にとび蹴りを決めた。もちろん手加減はしたし、クッション代わりにサムの背中に向かって蹴っ飛ばした。
 零はオレのコントロールどおり、サムの背中に思い切りぶつかった。
「オレはお遊びでトレジャーハンターなんてもうするつもりはない。よわっちょろい友達ならいらねぇんだよ」
 零の苦しそうな横顔に向かってオレはそう投げかけた。
「輝、一体何言ってるんですか?」
「そうだよ、嘘はもっと上手についたらどう?」
 二人の声も太陽の嗚咽も、今のオレには何の役にも立ちやしない。オレは親友の為だったら何だってする。親友達を、大事な人達を、これ以上傷つけたくなんかない。
「馬鹿じゃねぇの? お前らみたいな弱い連中とこれ以上一緒に居たくねぇって言ってんだよ」
 オレは真っ直ぐ泣いている太陽の前まで歩いていって、胸倉を思い切り掴んだ。
「友情なんてこういう弱いものなんだよ、分かったらもう二度とオレに話しかけんじゃねぇ」
その一言で、太陽は完全にクイーンとしての戦う力を失くした。一時的な事だって分かってる。でも、これで”HELL”は太陽にしばらくの間は手出しをしなくなる筈だ。
 サタナエルがまた壁を越えて戻ってきた。手には大事そうに金色の箱を抱えている。太陽もサムも零も、そんな事に構っている暇はないようだった。
 泣きじゃくっている太陽をそっと抱き上げて、サムはオレを見た。明らかにオレの言葉を信じちゃいない。オレに、
『無理しちゃ駄目だからね、絶対助けに行くから』
って目で訴えてから零を連れて来た道を帰っていった。
 オレはそんな三人の背中をじっと見つめながら、少しだけ泣いた。泣いちゃいけないって、それは分かってたけど泣かずにはいられなかったんだ。
 もう戻れない。もう、オレには後がないんだ。
 親友達を守る為に、オレはスカイブルーのトレジャーハンター達を裏切ったんだ。サムは気がついているみたいだったけど、でもオレは戻るつもりはない。戻って太陽が死んじまうよりは、”HELL”の味方についてる方がずっといい。
 オレはもう二度と戻れない覚悟をして、”HELL”の仲間になった。
 楽しかった思い出と支えきれないほどの涙を抱いて、オレは暗い裏の世界へ足を踏み入れたんだ。
 だからもう泣かない。弱音は吐かない。強く生きていくって決めたんだ。大事なものの為だったら、オレはいくらでも信念を曲げてやる。
 例え、そのせいでスカイブルーに嫌われても構わない。もう、なるようになればいい。大事な人達が無事ならそれでいい。
 オレは堀の水に照らされた月に、そう囁いた。


Fine.


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