スカイブルーのトレジャーハンター
     目に見えないものこそ本当の宝物



 オレは目を開けて起き上がった。
 全身が酷い筋肉痛でズキズキと痛いし、撃たれた時の傷が疼いている。腕と足の酷い痣を隠す術をオレは知らないけれど、どうする事も出来ない気がする。気のせいかぼんやりと霞んだ視界で前がよく見えない。重い体が酷くヨロヨロなのも感じる。
 それでもオレは強くなるって決めたんだ。絶対誰にも負けねぇって、そう決めて今までそれを貫き通してきたんだ。今更貫けないなんて事ないって信じるんだ。信じて努力すれば絶対に強くなれるから。輝や”HELL”の連中に負けている暇なんてねぇんだ。オレは無敵でいなくちゃ、無敵だから見つけた居場所が無くなっちまうなんてまっぴらごめんだ。
 オレは歯を食いしばって前を見た。
 真夏の癖に肌寒い異常気象の雨に感心しながら、オレも頑張らなくちゃと前を見た。ざあぁと何時間も振り続けている冷たい雨が開いた窓の隙間から入ってきている。
 きっと輝も同じように雨を見て休憩しつつ、特訓してるんだろうなぁ。追いつこうと思ったら、輝の何倍も頑張らなくちゃ。『太陽』の名前に負けないくらい、いつまでだって強くなくちゃ。
 それなのに重い体はとうとう言う事を聞かなくなって、床に座り込んでしまった。もう立ち上がる気力は無い。背中の傷がズキンズキンと酷く疼き、座っているのもつらいほどの疲れを感じた。
「太陽、お茶にしませんか?」
 零がそう言いながらドアを叩いている。ドアをがらっと開ける音がして、真っ黒な髪が大きく揺れた。それは真っ直ぐオレの前まで来るとしゃがんでオレの顔をじっと覗き込んだ。
「太陽?」
 零の優しい声がして、オレは必死で顔を上げる。背中がまたズキンと痛かったけど我慢して、必死で口唇の端を持ち上げる。気を抜いたら気絶しちまいそうなくらい気が遠くなってきているけど、オレは意識の糸を握り締めて引っ張り寄せた。まだ駄目だ、特訓しなくちゃ駄目なんだ。無敵じゃなくちゃ駄目なんだって、必死で言い聞かせるけど、掌に食い込んだ意識の糸のせいで血が出てつるつると滑る。駄目だ、もう無理。そんな弱音は吐きたくないけど、本当にもう掴んでいられない。
「零」
 オレはそう声を出す。
 その瞬間、意識の糸はつるんとオレの手から滑り落ち、深い闇の谷を滑り落ちていった。ああ、と声をあげては見ても、意識の糸に抱きついてまた谷にしがみつくなんてスタントマンみたいな事は出来なかった。オレは本当に疲れきっていたらしい。倒れこんで、そのまま意識を失った。

 目を覚ますと泉兄がオレの腕に包帯を巻いていた。かなり怖い顔をして、オレをじっと睨みつけている。メガネの銀色のフレームがきらっと怪しく輝いて、真っ黒な髪が小さく揺れた。
 部屋はオレが倒れた筈の自分の部屋だった。どれくらい眠っていたのかは分からないけど、そんなに時間は経っていないらしい。まだあの雨音が聞こえる。風で大きくカーテンが靡いているけど、誰もそれに気がつかない。
「何したらこんなにボロボロになっちゃうの?」
 泉兄はそう厳しい口調で言って、オレをじっと見つめた。凄く冷たい目をしていて、オレは凄く怖かったけど目は反らさなかった。怖くて動けなかったのもあった。
「怪我が開くから過激な事はしちゃ駄目って言ったよね?」
オレはどうしていいか分からなくて目を反らした。
 泉兄、めちゃくちゃ怒ってる。こんなこと、今まで一度も無かったのに……。オレ、そんなに悪い事をしたのか?
「太陽ちゃんは女の子なんだよ、それをちゃんと分かってる?」
「分かってるけど、強くならなくちゃ駄目なんだもん」
 オレは正直にそう言うと、起き上がった。ズキズキとまだ痛む体を起こすのだけにも一苦労したぜ。こりゃ、真面目に寝ていた方がいいのかも。でも、此処でサボってたら輝に追いつけなくなっちまう。オレがオレでなくなっちまう。今でさえ、前を走っている輝の背中が凄く小さいのに、これ以上遅れをとってたまるかよ。
「ねぇ泉くん、わたしに任せてくれる?」
 そう言って、優しそうな顔をした泉兄と同じくらいの歳のお姉ちゃんがオレの前に座った。すっごく綺麗な人だった。背が高くて、短めの髪をくりんと巻いている。この人もお医者さん? そうは全然見えないけど。 「はじめまして、太陽ちゃん」
「誰?」
 オレは泉兄にそう尋ねた。泉兄はちょっと怒った顔のまま
「伶奈ちゃんだよ」
とポツリと呟いた。
「あなたの噂は知ってる。あの女嫌いの輝くんと仲いいんだって? 空がよく言ってたわ、輝が凄く楽しそうだって」
「輝って女嫌いだったのか?」
 全く違うところで驚きだ。オレはそんなに嫌いなんだとは思えない。零とだって仲いいし、クラスの女子達に話し掛けられても嫌そうな顔しないし、何より女のオレが親友だろ?
「知らないの? 輝くんって小さい頃から女嫌いであなた以外の女の子の前ではあんなふうに笑ったりしないのよ」
 お姉ちゃんはにっこりと笑って
「空が輝くんはあなたと居るのが好きみたいだって言ってたわ」
とオレの頭をぽんぽんと叩いた。
 この人、一体何の話がしたいんだろう。オレは、オレは早く強くならなくちゃいけないのに……こんなところでサボってる暇なんかねぇのに。
「どうしてそんなに力にこだわるの? 輝くんにも訊いたけど、そんなに強くなってどうするの?」
 輝にも訊いたのかよ? オレも知りたいけど、きっとオレと同じ理由だと思う。誰だって強くなりたいものじゃねぇか。強くなって何かを守る為に、男だから負けられねぇものがあるんだよ。
「強くならなくちゃ駄目なんだよ、無敵じゃなくちゃ何も守れないから」
 オレは少し考えてから、目を丸くしているお姉ちゃんに目を向けた。鬱陶しい髪を右の手で払って、真っ直ぐお姉ちゃんの目を見据える。泉兄の冷たい視線を感じながら、オレは口を開いた。
「輝はなんて?」
「同じよ、守りたいものがあるんだって」
オレは窓の向こうに目をやって、輝の姿を思い浮かべた。
 きっと今頃、サンドバッグをバシバシ殴ってるんだろうなぁ。あのオレンジ色の巻き毛が小さく揺れているのが目に浮かぶ。真っ赤なグローブが蛍光灯に照らされて鈍く輝き輝らしい強い目が先を真っ直ぐ見据えているのも、まるで本当に見ているかのように。
 男らしく、負けてやる事なんてオレにはできねぇんだよ。オレはやっぱり男じゃないんだ、でも女でもない。中途半端だからこそ、今までは力で居場所を作ってきたんだ。今更、あの頃みたいな思いはしたくねぇ。
 オレはベッドから抜け出すと立ち上がって、深く息を吸い込んだ。雨の湿気と少し散らかった自分の部屋の匂いを胸一杯に感じながら、オレは息を吐き出した。
「だから心配しないで、絶対強くなるんだから」
そう、自分の胸に深く刻んで、オレはにっこりと泉兄に笑いかけた。

 その翌日、輝とサムが遊びに来た。
 サムは遊びにというよりは零と二人きりで何かの話をしたかったらしい。結局挨拶を交わしたっきり、オレはサムの姿を見ていない。ぼそぼそと何か話している声だけは聞こえてくる。どうやら楽しい事らしい。声が凄く弾んでいる。
 オレは輝と二人で部屋にこもっていた。雨は少し前にやんだけど、まだ大きな水溜りがあちこちにあるから仕方がない。公園に行ったって、ベンチや遊具は濡れている筈だ。まさかスーパーで暴れる訳にもいかねぇしなぁ。
 輝はオレの古いレコードのコレクションを漁りながら言った。
「太陽、無茶したんだって?」
「別に無茶なんて部類には入らなねぇよ」
一枚のレコード(どうやらマイケル・ジャクソンらしい)を出して、輝はオレの前に椅子を引っ張ってきて座った。ちなみにオレはベッドに座っていたんだけど、輝がなんだか苦しそうな顔をしていたからびっくりして黙った。
 オレはどうしていいか分からなくて輝に向かって手を伸ばした。ちょっとだけ硬い輝の髪を掌に感じながら、何か出来る事はないかと考えた。でも何も思いつかない。
「お前の無茶って何処からだよ」
 輝は大きなため息をついて、オレの手を握った。
 大きな輝の手は凄く暖かかった。それと同時に、ボクシングで出来たらしい大きなタコが目についた。今にも破れちまいそうなくらいでっかい。少したくましくなったような気がする腕は白くて、いかにも外に出てませんって感じがする。
「死んでから先だな☆」
「それは”命知らずの大馬鹿野郎”が言う事だろ」
「おいおい、”地獄への近道を走る超いい女”だって言ってくれよ」
 オレは笑って輝の瞳を見つめた。いつもよりも強く感じる真っ黒な大きい瞳がちょっぴり怖かったけど、オレは恐怖を殴り飛ばして輝を見つめる。
「太陽、馬鹿な事すんなよ」
 輝は凄く心配そうだった。
 こんな目をしていたのは零にトイレで水を掛けられた時以来初めてだ。悲しそうで苦しそうで、オレに特訓なんてやめろってそう言っているように感じる。
 オレはそんなに無茶しているんだろうか? そんなつもりは全くないけど、輝は本当にオレの事を心配している。なんだかちょっといつもと違う感じがする。ああ、なんて表現したらいいのかな。なんかサムや空兄みたいな……そうだ、大人みたいな雰囲気だった。見た目はいつもと同じなんだけど、中身はサムみたいな冷静さが増しているような不思議な感じがしたんだ。
「平気だって、オレは死なねぇぞ♪」
「死にかけただろ? 泉兄が居なかったらまず間違いなく死んでいたって兄貴に聞いた」
「ええ、マジで?」
 オレはびっくり仰天していた。そうか、オレは死にかけたのかぁ。なんかカッコいいな、映画のヒーローにはよくある設定だろ? オレってヒーローだし(女だからヒロインか?)。
「太陽に死んでほしくない、オレは……そのぉ」
 輝、一体何が言いたいんだ? 何でオレに死んでほしくねぇんだ? あ、やっぱり親友だからか。ずっとずっとこれからも、トレジャーハンターをやっていたいもんな。誰にも死んでもらいたくない。このまま、永遠にスカイブルーのトレジャーハンターをやっていたいくらいだもんな☆
 するとその時、部屋にサムが入ってきた。後ろには零もいる。仲良く手を繋いでいる二人は最近あんまりオレや輝とは一緒に居ない気がするけど、気にしないようにしている。考えるだけ、寂しくなるだけだもんな。友達が幸せなんだから、見守ってやらなくちゃ。邪魔しちゃ駄目だ。
 二人は真っ直ぐオレと輝の前にやってくると
「ねぇ、明日から海に行かない?」
と楽しそうに笑って言った。サムが凄く嬉しそうだ。ああ、零とかき氷が食いたいのか。あの二人には一つずつじゃ多そうだもんなぁ。オレには三つでベストだけど。
「嫌だ、オレは海が嫌いだ」
 輝はそれだけ言って、オレの肩に抱きついた。
「なぁ、太陽も行きたくねぇよな?」
「行きてぇな、オレは」
 オレは意地悪く笑って、輝の腕をぎゅっと掴んだ。急に顔色が悪くなる輝の顔をじっと見つめて、オレは極力明るい笑顔を浮かべて
「一緒に泳ごうぜ、海に沈めてやるよ」
とささやいた。サムと零がぶっと噴出すから、思わずオレも楽しくなる。
「なあ、マジで海はやめようぜ。ロシアとかどうだよ? 今行ったら涼しいぜ!!」
「夏だからこそ、海だろ?」
 ……って訳で、オレ達スカイブルーのトレジャーハンターはオーストラリアのハミルトン島に行くことになった。これだけじゃオレにもイマイチ分からないけれど、サムの解説によるとグレートバリアリーフの中にある島らしい。超綺麗な所らしいって、零が話してくれた。行きたくないといって聞かない輝はぐずぐずと泣いていた。

 翌日、オレはいつもと同じように零に起こされて家を出た。なんだかんだでボロボロになったトランクを引っ張りながら、待ち合わせ場所のサムの家に向かって歩いていると零が言った。
「そういえば、太陽って泳げるんですか?」
「はあ?」
「なんとなくですよ♪」
「言っとくけど、オレは泳ぎで負けた事はねぇ!!」
 そうだよ、オレは人魚姫だって呼ばれてた事だってあるんだぜ。泳げねぇ筈がねぇだろ。おかげでプールで鬼ごっこすると絶対に勝てるって言う事が分かった。あんまり楽しくはねぇけどなぁ。
「へ〜、本当ですか?」
 面白そうに笑ってみせる零をじっと睨みつけてから、オレは少し考えた。ここで行くら反発したところでオレに勝ち目はない。黙っている方が得策だな。零はそれ以上何もいわねぇだろうし。
「じゃあ、本当に苦手な物って高いところだけですか?」
「まあな」
 そんな話をしていると、朝早くから面白そうに笑っているサムが手を振っているのが見えた。どうやらオレじゃなくて零に振っているらしい。全く、仲のよろしい事で……。
 まだ暗くて、月明かりに照らされている。街灯がチカチカと点滅していて、田んぼしかない空色町の殺風景なド田舎を彩っている。吹いてきた少し冷たい夜風に吹かれながら、オレは空兄の車に乗った。  零はサムと抱き合っているから見ない。見たって面白くねぇし。それより輝は何処だろう? からかってやろうと、オレは車の中を探す。
 空兄の車はいつものと違って大きいワゴン車だ。暗くてよく分からないが、色は深い青色らしい。三列に並んだふかふかの席に腰掛けて、必死で辺りを見回す。どうやら空兄はするめを食べていたらしい。袋が無造作に放り出されていた。
「よお、太陽ちゃん。輝だったら一番後ろだよ」
 空兄は運転席からオレに向かって言った。
「了解!!」
 一番後ろの席のドアを開けてみると、手錠を掛けられた上にガムテープで口を塞がれた輝が眠っているのを見つけた。しかも魘されているらしい。しくしく泣きながら眠っている。
 オレはガムテープを剥がすと、輝を軽く揺すって起こした。濡れた頬を持っていたハンカチで拭いてやって、それからじっと顔を覗き込んで名前を呼ぶ。
 くりんと巻いた髪がぐっしょりと濡れていた。相当長い間泣いていたらしい。頭のあった位置が濡れていた。何にそんなに魘されたのかは分からないけど、海が怖いのは確かだ。それも、前よりもずっと悪化している。
「どうしたんだよ? 魘されてたぞ」
「うう、此処は?」
「空兄の車の中」
薄いタオルケットをかぶった輝は、苦しそうに呻いて起き上がった。手錠が邪魔で上手く起きられなかったみたいだから手を貸した。
「オレ、マジで帰る」
輝がそう呟いて、泣き出しそうな顔をする。また、サタナエルに海に落とされかけるんじゃないかと怯えているみたいだった。
「どうして?」
「本当に海だけは……」
 輝は情けない声をあげてしくしくと泣き出した。ガタガタと手が震えている。あんなに大きく感じていた背中がまるで小さな蟻みたいで、いつもは自信満々の澄んだ瞳が今日は曇っていた。
 気の毒になってくるくらい怯えていたから、オレは黙って輝の隣りに座ると頭をぽんぽんと撫でた。暖かい輝の体温を掌に感じながら、オレは言った。
「オレは人魚姫って呼ばれてたんだぜ、輝が溺れないように助けてやるって」
「怖いのは船から突き落とされそうになるのだよ、行ったって足手まといだろ?」
 本当に怖がっているらしい。この調子じゃ本当に帰っちまいそうだ。きっと空兄は輝を連れ出すのに一苦労したんだろうし(だから手錠を掛けたみたいだ)、あんまりにもうるさく喚くからガムテープで口まで塞いだんだろ? 一体どんな暴れ方をしたんだろう。よく見たら怪我をしている空兄が少し怒りながら輝を睨んでいる。
 オレは少し考えてから、タオルケットをかぶった輝をそっと抱いた。震えていた肩が少し落ち着いた気がする。恥ずかしそうに顔を背けて、ずるずると鼻水をすすった輝は思ってたよりも小さかった。
「輝って馬鹿だな、もう少し賢いと思ってたのに」
「悪かったな、馬鹿で」
「無敵のオレが居る限り、輝はぜってぇ溺れねぇよ」
 オレはそれからぐずぐずと鼻を鳴らす輝の背中をそっと擦って、思い切り笑った。ちょっと近所迷惑なのは分かっていたけど、でもなんだか面白かったんだ。輝が輝らしくなくて。
「太陽、たまにはヒーローみたいな台詞を言うんですね」
「いつもそうじゃねぇか」
「何処が? 『ざまぁみやがれ!』とか『参ったかぁ!』って、悪役の台詞だと思うよ」
 サムと零がオレの頭を思いっきりぐしゃぐしゃ撫でながらそう言った。ちょっとムカついたけど、輝が笑ったから何も言い返さなかった。
「輝、笑っただろ?」
「うるせぇ、黙れ!!」
「何だよ、さっきまで泣いてたくせにぃ〜」
「悪かったな、オレだって好きで泣いてたんじゃねぇよ!」
 空兄がくすくすと笑いながら車を動かし始めた。一つ前の席で楽しそうに笑っているサムと零は輝をからかって遊んでいた。

 オーストラリアの海は真っ青で綺麗なところだった。底に手が届きそうなくらい澄み切っていて、めちゃくちゃ柔らかい瑠璃色の水。暖かい潮風にカモメ達の鳴き声が響き、魚が足元を掠めていく。
 怖がって海に近寄らない輝を見ながら、サムと零が呆れている。仲良く寄り添いながら、水平線に目を凝らしていた二人は仲良くて話しかけづらかった。
 仕方がないから、オレは輝の腕を強く引っ張った。情けない声を上げて泣き出しそうな顔をオレに向ける輝は、とてもじゃねぇけどあの時助けてくれた輝とは似ても似つかない姿だった。
 ガタガタと震えていて、苦しそうに嗚咽を上げる。
「太陽、マジでやめて」
 情けない輝の声に、オレは思わず噴き出した。輝らしくねぇ泣き声に笑いが込み上げてくる。笑っちゃ駄目だと必死で笑いを堪えながら、輝の腕を引っ張った。
「輝、足がつく所までだぜ」
「駄目なんだって……」
 すると、零が輝の腕に大きな浮き輪を押しつけて
「太陽が居るんですから大丈夫ですよ」
と優しい口調で囁いた。確かにこれだけデカけりゃ沈みはしねぇなぁ。ただし、ピンク色で花柄だけど。
 結局嫌がっている輝をオレとサムが引きずって歩く事になった。零が面白がって、輝を突き飛ばすと海の中におもいきり突っ込んだ。浅かったから、輝はずぶ濡れになっただけですんだけど、膝下までの浅瀬で溺れかけた。助け起こすと、今にも泣き出しそうな顔をしていた。
「大丈夫かよ?」
 輝は何も言わずにオレの腕にしがみつくと、ずぶ濡れの髪を振り払って顔を上げた。水が頬を伝って落ちたけど、海水なのか涙なのかは分からない。表情から見て涙のような気がしなくもないけど。
 本当に怯えていたらしく震えていたから、オレはぽんぽんと輝の頭を叩いた。それから手を貸して立たせようとしたけど、濡れたズボンが重いのか上手く立ち上がれないらしくてこけた。巻き毛が真っ直ぐになって、滝みたいに水が滴り落ちた。そのせいでよく表情が見えないけど、泣いているらしい。肩が小刻みに震えている。
 サムと零が笑いこけているのを悔しそうに睨みつけながら、輝は黙って立ち上がるとズボンのポケットから水鉄砲を出してサムの顔に向けた。まだ気がついていないのをいいことに、輝は引き金を結構な勢いで引きまくり、サムは輝と同じようにずぶ濡れになってしまった。
 髪からボタボタと雫を垂らしながら輝を睨んだサムはバシャバシャと飛沫を立てながら輝に突進していくと、輝を思い切り突き飛ばして
「酷いじゃん、このこのっ」
と両手で水をかけた。その勢いがまた激しかったからオレまでずぶ濡れになった。酷い、酷すぎる。オレまで巻き込まなくてもいいのに……。
「サム、よくも……」
 オレはサムの腕を掴むと思い切りサムを水面に投げ飛ばした。ばっちゃ〜んっとものすごい水飛沫を立てて、サムは海の中に。輝を笑っていられないくらいずぶ濡れで、オレは満足して胸を張った。
 手加減はしたからサムは大丈夫だったみたいだけど、さっきまで泣きそうだった輝が腹を抱えて笑っていた。どうやらとばっちりを受けてずぶ濡れになったみたいだったけど、楽しそうだ。髪が揺れる度に雫が海に落ちる。
 これにはオレもサムもびっくりして、顔を見合わせた。零がサムに手を貸して笑った。ぼうっとしながら輝を見つめているサムの馬鹿面にオレは思い切り水をかけて、輝をもっと笑わせた。サムは笑ってオレに水を掛け返して笑った。
 それからは輝もそんなに怖がらなくなったから、浮き輪を引っ張って沖の方に行ってみた。
 黙って引っ張られていた輝も流石に足が着かなくなると怖がって
「帰ろうぜ、怖いって」
と言い出した。ピンク色の大きな浮き輪に掴まって、オレの腕をぐいぐい引っ張る。
 本当に怖がっているって分かったから引き返そうとして辺りを見回した。頬に鬱陶しく張り付く髪を払って、顔を上げると小さなボートがあった。本当に小さなゴムボートで、其処には見慣れた二つの顔があった。
 一つはサムにそっくりの顔。もう一つは見てるだけで腹の立ってくるサタナエルの顔だった。どっちも同じ、ドライスーツを着ている。髪は乾いているけど、これから潜る気満々って感じだ。
「あれ? 太陽ちゃんと輝くん」
 あのムカつく声がそう言った。
 浮き輪に大人しく掴まっていた輝が急にオレの腕に掴まった。おい、沈むから放せと振り払ってはみたけど、震えているから絶対に離してくれそうにない。浅瀬で仲良く遊んでいるサムと零は気がついていない。
「ちょっと賢治、輝が怖がってるじゃん」
 オスカーがそう言って、サタナエルを押し返した。いつの間にかサムと同じ真っ赤な髪になっている。ますます見分けがつかない。オレ、どうしたらいいのかなぁ? 今度誰かに見分け方を教えてもらおう。
「何してやがる」
 オレはなんとなく、嫌な予感がして二人に尋ねた。鬱陶しくくっついている輝は早く帰ろうと言いまくっているけど無視する。”HELL”の悪事を見逃す訳にはいかない。輝が逃げたくても、オレは逃げられない。
「珊瑚が綺麗だから集めてるんだよ♪」
 サタナエルはにっこりと笑って、手が届きそうなくらい澄み切った水を指差した。
「それって、違法じゃ……」
 珍しく輝がオレの後ろから呟いた。さっきまで帰ろう以外の何も言ってなかったのに。びっくりして振り向くと、輝はサタナエルをじっと睨みつけていた。いつもと同じ、頼りになる輝の目だった。
「オスカー、この二人を今すぐ殺しちゃってよ」
「太陽ちゃんはともかく、輝は絶対駄目」
 おい、ちょっと待て。輝は駄目でオレはいいのかよっ! 輝も何とか言え!! そう思って怒鳴ろうかとも思ったけど、輝は酷く震えていたから何も言わなかった。
「オスカー、言ったよね? 従わないんなら……」
 サタナエルは何か言いかけたけど、それはよく分からないまま、オスカーは銃を抜いた。サムよりも少し冷たい瞳が怖かったけど、オレは笑った。上手くいく自信はないけど、何もせずに殺されるよりはマシだ。
「輝、息が続く限り潜ってろ」
そう輝に囁くと、輝の頭を海に押し込み浮き輪をオスカーに向かって投げ飛ばした。それは気持ちがいいほど見事に命中した。おまけに銃まで落っことしてくれた。海の深くにそれは沈んだのをちゃんとこの目で確認したからほっとした。  
オレはすぐに海に潜るとボートの下を泳いで横切りゴムボートの端を引っ張った。海水が流れ込んで、ボートは思ったとおり転覆した。大きな波紋が広がって、輝が溺れながら流されているのが視界の隅に入った。
 早くしないとと、オレは浮き輪を持って溺れている輝を助けた。青い顔をしながらオレの腕にしがみついたので生きていることは確認した。
 そんな輝に浮き輪を渡すと、オレはゴムボートの方を見た。サタナエルとオスカーはゴムボートに掴まっていて、こっちを睨んでいる。どうやら追って来る気はないらしい。
 輝は浮き輪に掴まったとたん大量の海水を吐いたから、オレは急いでサムの居る方向に浮き輪を引っ張った。もしかして、ヤバイ? と急に心配になったから、かなりのスピードで泳いだ。浅瀬に行くとサムと零が気づいてくれて、輝を引っ張りあげてくれた。
 輝は気を失っていた。息はしていたけど、顔色が凄く悪かったから揺すって起こすと、気持ち悪そうに水を吐いた。相当の量を飲んでいたらしくしばらくは吐きっぱなしだった。ちょっと悪い事をしたかな? でもああしなかったらオレ達死んでたし……。
 空兄が見晴らしのいい場所から見ていたらしく、オレに
「なかなかやるなぁ」
と言ってくれた。
 嬉しかったけど、結果的に輝が溺れて水を飲んじまったからちょっと反省していた。やっぱりもっともっと強くならなくちゃ。オレが弱いから輝が溺れたんだって。
 輝はあんまり怒っていなかった。……ってか、怒ってはいたんだけど、
「無茶するなよ、怪我したらどうするんだよ!」
って怒られた。
 輝の部屋に二人きりで、オレと輝はベッドの上だった。上手くいったからいいじゃんってごまかそうとしたら、
「いい加減、そういう馬鹿みたいな真似はやめろって言ったじゃねぇかよ」
と怒鳴られた。それも凄い剣幕で、めちゃくちゃ怒ってる。漫画やアニメだったら髪の毛が逆立っててもおかしくないくらい、凄く怒っていた。
 こんなの初めてだった。
 輝が本気で怒って本気でオレに怒鳴ったりなんか一度もなかった。なのにオレはものすごい勢いで怒鳴られている。びっくりして、何も言えなくなった。急に手が震えだした。
「太陽、前にも言っただろ? オレは怪我なんてしてほしくないって」
 オレは怖くなって目を反らした。どうしよう、オレはなんて返したらいい? なんだかめちゃくちゃ怖い。銃口を向けられる事よりもずっと、ずっと怖い……。そう、今までは同じ狼だった筈の自分が急に子羊にでもなっちまったみたいに。鋭い牙を持つ狼に睨みつけられているような、そんな気分だ。
 突然だった。
 輝はオレの腕を掴むと乱暴に引っ張って顔を覗き込んで来た。まだ少し湿ったままのオレンジ色の髪が小さく揺れて、大きな瞳がオレを真っ直ぐ見つめていた。オレよりもずっと力があって背の高い輝が正直怖かった。怖いくらい真っ直ぐな輝の瞳が、今のオレには鋭い牙みたいに感じられる。冷たくなんかない筈なのに、北極の氷みたいに痛いほど冷たく感じるんだ。
「聞いてんのか?」
 オレは何も言えなくて、輝の顔を真っ直ぐ見つめたまま動けなくなった。目を反らしたいの反らせない。逃げたいのに逃げられない。蜘蛛の巣に掛かったアゲハ蝶みたいに死の恐怖に怯えているだけで、自分が本当に無力でヒーローなんかじゃないんだって思い知った。怖いんだ。そう、ただ純粋に恐怖に怯えているんだ。しんと静まり返った漆黒の闇に包まれる夜を恐れる小さな子供みたいに……。
 輝のオレンジ色の髪が肩を滑り落ちた。
 オレはぎゅっと強く目を閉じると、そんな輝の腕を振り払って思い切り殴り飛ばした。頬を思い切り殴ったつもりだった。でもそれは輝の左の掌で防がれていて、オレの手は急に震えだした。
「おい、太陽?」
「うるせぇ、黙れ。オレは誰が何て言おうが地獄への近道を行くんだよっ」
 それ以上は言えなかった。
 胸の奥がズキズキと酷く痛くて、悔しいような悲しいような変な衝動でその場を走って離れた。急に頬を濡らしだした熱い涙を拭って、つんとする鼻をすすって。何処へ行っていいか分からないまま、オレは黙って走った。わき目も振らずとかいうけど、今のオレにはそんなもの関係ない。涙で何も見えやしない。振りたくたって振れねぇよ。
 オレはホテルを出て、海岸の誰も居ない場所に逃げ込んだ。大きな岩の陰で、今のところ誰もそばに居ない。此処でだったら好きなだけ泣けるだろう。
 しばらくすると、目の前に誰かが立った。太陽の光りが後ろから射していて誰かよく分からなかった。真っ赤な髪が目に入ったからサムだって、そう思った。
「あれ、太陽ちゃんだよね?」
 サムじゃない、少し冷たいような不思議な声は言った。ああ、これはサムじゃない。オスカーだ。サムによく似ているけど全然違う。お人よしで大馬鹿のサムとは全然違う人なんだって、すぐに分かった。大体、サムがオレの事を太陽ちゃんなんて呼ぶ筈ない。
「どうかしたの、輝とケンカでもした?」
 なぜだかサムとよく似た優しい笑顔を浮かべながら、奴はオレの隣りに座った。さらっと真紅の髪が揺れた瞬間、ああやっぱり双子なんだなぁって、そう思った。仕草とかはあんまり似ていないけど、何処か不思議な雰囲気とか紳士っぽい仕草はまさにサムだ。
「うるせぇよ」
「そう言わないでさ、ちょっとくらい話してよ」
「オレは敵に自分の事を話すほどの馬鹿じゃねぇ」
「けぇ〜ち」
 オスカーは笑ってオレを見つめる。
 不思議なくらいサムに似ている視線にびっくりして、オレは何も言えず黙り込む。もしかして、こいつはサムなのか? と、一瞬ものすごく悩む。でもやっぱり違うんだと、サムにはない頬のそばかすとちょっとばっかり健康的に焼けた小麦色の肌が目に入る。
「言っとくけどね、俺は好きで”HELL”に居る訳じゃないんだよ? 誰が双子の兄貴を好きで殺すかっつ〜の」
 流暢な日本語で、オスカーは楽しそうに笑う。本当に病弱だったのかって疑いたくなるくらい奴は元気そうだった。大体、心臓病で死んだって言ってたのにどうなってんだよ? ただでさえ頭の悪いオレに頭を使うような事、言ってんじゃねぇよ。
 それはともかく、何が言いたいのかよくわかんねぇけど、オスカーがサムの事を嫌いになったって訳じゃない事は分かったからほっとした。サム、喜ぶだろうなぁ。帰ったら教えてやろう。
「太陽ちゃんだってそうでしょ? 実の兄弟を殺せる?」
「っつか、殺されたもん」
「知ってる、犯人が誰なのかもね☆」
 オスカーはポケットに手を突っ込むと真っ白なハンカチを出して、オレの頬を少し乱暴に拭った。からかっているのか、含み笑いを漏らしながらオレの顔を覗き込んだ。
「サムには言わないって約束してくれる?」
悲しくて優しい、不思議な瞳をしていた。視線は少し冷たいのに、なぜか思いやりがあって暖かい不思議な感覚。
 そうか、コイツは本気で言ってるんだ。何も嘘が混じってたりしない、純粋な優しい笑顔。四人で大騒ぎしている時のサムと同じ、幸せそうな楽しそうな顔。オレが大好きな親友の大好きな笑顔。そうか、コイツは魂まで腐っちゃいねぇ。地獄に身を置いてはいるけれど、地獄の色には染まっちゃいねぇ。地獄の漆黒をどんなに混ぜたって、コイツの真っ白な色には弾き飛ばされちまう。そんな強い心を持った、サムの弟なんだな。
「いいぜ、約束してやるよ」
 オスカーは満足そうににっこりと笑った。ああ、そうだ。やっぱりサムにそっくりだ。心も体もそっくりの、今も昔も仲のいい双子の兄弟なんだ。
「まあ、いろいろとあってね。俺の心臓には機械が仕込まれちゃってるんだ」
「それってペースメーカーみたいなの?」
「そうだったらどんなにいいことか……」
大きなため息が口から漏れ、真っ赤な髪が顔を覆う。力いっぱい膝を抱いて、悲しそうな顔をした。サムよりもずっと太い、筋肉質の腕が何処か弱々しく感じられた。
「違法な手術で移植された健康な心臓にね、小さなスタンガンみたいなものが埋め込まれているんだって。俺が賢治を裏切った瞬間、機械のスイッチが入って心臓発作で天国行き。全く、賢治も趣味が悪いよね」
 オスカーは凄く悲しそうだった。なんて言ったらいいのかな? 梅雨の時期、雨の中で一人濡れながら輝いている美しい紫陽花のような。一人ぼっちで孤独に悲鳴を上げる狼みたいだ。
「で、太陽ちゃんはどうなの? 話してくれるよね?」
 畜生、ハメられた? こういう時はなんて言うんだったけな? ああ、そうそうFack you!!だ。サムが時々呟いてる。何語なのかは知らないけど、まあいいや。
「まあ、オレは無敵の筈なのに輝といろいろとあったんだよ」
「ああ、ケンカに負けたんだ」
「違ぇよっ! 負けてねぇ」
 オスカーは大げさに腹を抱えて笑う。肩がかなり震えていて、息も出来ないほどだ。苦しそうに笑いながら、奴はオレを見る。
「全く、噂通りだね」
「はあ? いい加減にしろよ、ぶっ殺すぞ」
「今の君に殺られてあげる気はさらさらないよ」
何もかも見透かされそうな真っ青な綺麗な瞳。奴はそれを真っ直ぐオレに向ける。まるでそれが当たり前みたいな、顔をしているから、なんだか腹が立って仕方がない。
 オレは黙って拳をぎゅっと握ると、オスカーの目をじっと睨んだ。一発くらい殴らなくちゃ落ち着かないっつ〜の。オレが短気な事も、からかわれるのが好きじゃねぇって事も知らない。やっぱりサムとは似ても似つかない、そんな奴だったんだな。
 すると突然、オスカーは悲しそうな笑顔でオレに向かって目を向ける。よく分からないけど、怒りは収まっていた。何だよ、コイツは? サムもよくわかんねぇ所があるけど、此処までじゃねぇ。
「ねぇ、サムの事を絶対守るって約束してくれない?」
小さな悲しい声が聞こえた。吹き出した強い潮風にかき消されそうになりながら、何とかオレの耳まで届いた。俯いて、苦しそうに膝を抱いた奴は、不思議なくらいちっぽけだった。どうしてだろう、どうしてそんな事をオレにいうんだろう? オレよりもずっと知り合いの筈の零や輝に頼めばいいのに……。
「俺、死ぬのが怖くてきっとサムを殺そうとするだろうからさ。俺なら殺してくれても構わないよ、サムの事を絶対に守って」
 オレは奴の肩を掴むと強く揺すった。
 サムと同じ青い目が潤んでいた。頬は少し濡れていて、小さなそばかすをキラキラと輝かせる。苦しそうに笑ったオスカーは何処か悲しげな雰囲気で、さっきまで殴ろうとしていた筈の相手とは思えないくらい弱々しくて仕方がなかった。
「どうして輝とか零とかに頼まねぇんだよ?」 「あの二人はね、其処まで強い心を持ち合わせていないんだよ。太陽ちゃんは無敵だから、俺の事だって絶対に止めてくれるでしょ?」
「誰が止めるか、ボケェっ!!」
 オレは奴の頬を思い切り殴り飛ばした。鬱陶しく頬に張り付く金髪を振り払ってから、オスカーの面を覘きこんで、深く息を吸い込む。
「死ぬのが怖い? 笑わせんじゃねぇよっ!!」
 黙ってオレを見つめるオスカーは頬を右手で押さえたまま、呆然と詩ながら、口をあんぐりと開けている。真っ赤な髪に隠れそうな青い瞳は何処か呆れているような色で余計に腹が立つ。
「だったらオレに殺せって頼むんじゃねぇ。自分の力でサタナエルの野郎に嫌だって言いやがれ!!」
 オレはもう一発殴るつもりで拳を後ろに引いた。強く握った拳にますます力を込めて、腹立ち紛れにオスカーを殴り飛ばした。力いっぱい、怒りを込めて。
 輝と零は弱くなんかない。ただ、心から優しい、いい奴なんだ。オスカーがどんなに酷い裏切り方をしても、あの二人は絶対に殺しやしない。それはそれは強くて大きな心を持ってるんだ。目には見えないものだけど、大粒のダイアモンドやアレクサンダー大王の剣よりもずっとずっと大切な宝物。こんな腐った根性のクソ野郎に言われる筋合いなんて全くない。オレの親友達は、地球上に存在するどんなものよりも大切な価値のある宝物の持ち主なんだよ。
 オスカーはそれがわかってねぇ。分からせてやる気にもなれねぇ。胸の奥で何かが熱く燃え上がるのを感じる。凄く醜い炎で、オスカーも一緒にその炎で灰にしちまいたいと強く主張する。
 ああ、そうか。オレは仲間達みたいに綺麗な心を持っていないんだな。こんなに醜い憎しみの心しか持ち合わせちゃいねぇんだ。仕方がないって言えば仕方がない事なのかもしんねぇけど、オレはそんなズタボロの弱い心なんだよ。
「太陽ちゃん、優しくないんだね」
 オスカーはオレを真っ直ぐ見つめた。生ぬるい潮風が吹き抜けて、そんな奴の髪を大きく靡かせる。その面には真っ赤な痣。オレが殴り飛ばした証が生々しく残っていた。
「自分の兄貴を殺そうとするって分かってるなんて、サムとは似ても似つかねぇ野郎だな」
「君には分かんないよ、俺の事なんて」
何処か寂しそうな顔をして、オレから目を反らした。
 それがまたオレの中の糸をぎゅっと引っ張る引き金になる。キレちゃ駄目だって言い聞かせて落ち着こうするけど、炎はもっと激しく燃え上がるばかり。オスカーの野郎、オレの仲の炎にガソリンでも注ぎやがったな。でもまだなんとか堪えられそうだ。
「死ぬって凄く怖い事だよ、出来れば当分の間は死にたくない」
「言わせてもらうけどな、オレだって死に掛けた事くらいあるんだよ。だけど、オレは大事な人達を傷つけてまで生きながらえたくないね。輝やサムを裏切るくらいだったら地獄の業火で焼かれた方が何十倍もマシ」
 とうとう糸がぷちんと音を立てて切れた。
 オレは拳を後ろに引いて、何発も何発も殴った。燃え上がる炎の消し方を知らないオレは、いつの間にか意識を失った。

 次に目を覚ました時、サムがオレの前に座っていた。
 一瞬、オスカーの野郎かと思って殴りそうになったけど、弱々しく座り込んだ姿を見た瞬間、サムだって気がついて何とか寸止めで止められた。
「太陽」
 サムがそう言ってオレの前にしゃがんだ。
 今まで自分が何をしていたのか思い出せなくなった。なんとなく、オスカーを殴った辺りまでの記憶はあるんだけど、それ以上先の記憶は何一つ残っていない。オレ、今まで何をしていたんだろう。
 辺りはもう暗く、冷たい潮風に吹かれ始めている。急に寒さを覚え、オレは無意識のうちに腕を擦った。大きな月だけが辺りを照らしている。風に揺れてみしみしと音を立てる大きなやしの木がオレを見下ろしていた。
 サムは何も言わずにオレの肩に薄い布をかけると
「急に居なくなって、どうしたの?」
と優しい口調で尋ねる。急に輝との事を思い出して、また涙が溢れた。止めようとして、必死で目をこすると、サムが何も言わずにオレの手を退けて、布で涙を拭ってくれた。
「何があったの?」
 そう言って、オレの頭をぽんぽんと撫でてくれるサムはやっぱりサムで、凄くほっとした。最近ずっと遠く感じていたからかな? オレはそんなサムに甘えて少し泣いた。

 ホテルに戻ると、オレは迷わず輝の部屋に行った。心配そうな顔をしていたサムと零を見て見ぬフリしながら、オレは廊下を真っ直ぐ歩く。開いた窓から流れ込む、冷たい潮風に髪が大きく靡くのを感じる。鬱陶しいから右手で払いのけて、オレはドアの前で立ち止まった。
 怖い? そんな訳ねぇだろ、オレは無敵なんだから。
 震えそうになる手にぎゅっと力を込めて、顔を覆おうとする髪を払う。深く行きを吸い込んで、何も怖いものなんかない、無敵の自分を思い出す。そうだ、オレは無敵のクイーンだろ? だったら大丈夫、真っ直ぐ前を見て笑いやがれ。
 オレはドアを乱暴に蹴り開けた。
 ばんっと音がして、ドアは開いた。ギィィと古いドアの開く音が辺りに広がる。一瞬、強く吹きぬけた風がドアから部屋へと流れ込み、オレの髪は大きく揺れた。でもそれはあえて無視する。
 オレは呆然とオレを見つめる輝に向かって、向け所のない怒りと悔しさを込めてこう怒鳴った。
「おい、輝。このオレとサシで勝負しやがれっ!!」

 真っ暗な白い砂浜には誰も居ない。月とやしの木だけがオレと輝を見下ろしていて、さざ波がオレを応援している。星がキラキラと瞬き
「無茶だって、やめとけよ」
とオレをあざ笑っている。それにまた腹が立つから、絶対に負けてやらねぇとムキになる。
 輝は何処か嫌そうな顔をしながらオレを見下ろした。
「お前、本気かよ?」
「だったら悪いか?」
輝は頭に手をやると、オレから目を反らした。悩んでいるような、困っているような、そんな顔をしていた。そうか、オレに勝てる自信はあるんだな? 意地でも勝ってやろうじゃねぇか。
 するとホテルから出てきたサムと零がオレと輝の間に割りこんで
「やめなよ、太陽」
とオレの肩を押さえつける。サムがオレから手を離し、輝を見た。その瞬間、オレは零に思い切り突き飛ばされた。
「何考えてるんですか?」
「うるせぇ、其処を退け」
 オレは零を突き飛ばすと、サムを押しのけて輝に殴りかかった。右の拳を思い切り、ふざけたその面に向けて。でも、あっさりかわされた。
「太陽、一体何のつもりなんだよ?」
 輝がそう、オレの背中に向かって浴びせた。
 そんな事、オレにだって分からない。ただ、腹が立って仕方がない。それをどうにかしたいのに、拳を向けるべき場所は見当たらない。
「オレだってわかんねぇよ」
 その瞬間、頭の隅に小さかった自分の姿が浮かんだ。
 オレは泣いていた。友達だった女子達の陰口と、しつこく付きまとうガキ大将の姿。それに怯えて、膝を抱えている。ママの趣味で伸ばしていた真っ黒な長い髪のカーテン、その向こうに見える世界は遠くて手の伸ばしても届かない。
 そうだ、オレは弱くて大嫌いだったガキ大将を追い払う事も出来なかったんだ。友達だった女子達はオレから離れて、オレは一人ぼっち。そんなオレが覚えたのは強くなる事だった。ガキ大将を殴る力がほしかった。誰にも負けない無敵のヒーローになりたかった。そう、そしてオレはそれを手に入れた。
 オレはずっとずっと拳で居場所を作ってきたんだ。無敵じゃなくちゃ、オレはまた孤独で弱い存在になっちまうから。だから、負けられないんだ。無敵じゃなくなったオレにはもう居場所がなくなっちまう。
 だから、オレから居場所を奪おうとするのが輝でも、オレは手加減なんて出来ないんだ。オレにはこの拳しかないんだ。ナイトに居場所を奪われるような弱いクイーンではいられないんだ。
「太陽、無茶はやめて」
 サムがオレの腕を掴み、オレの目をじっと覗き込む。真剣なサムの目。何処かオスカーに似た悲しそうな冷たい目をしていた。
「これ以上やるんだったら、勝てる自信はあるんだよね?」
 本当は自信なんてない。勝てない事は分かってるんだ。今のオレには歯も立たないだろうって。一回でも拳が輝に届けば奇跡ってトコだ。輝はオレのずっと前を走ってる。もう背中は全くと言って良いほど見えない。そんな相手に勝とうなんて、正気の沙汰じゃねぇだろうな。
 でもオレは胸を張って答えた。
「あるぜ、輝をボコボコにしてやれる自信がなぁ」
「じゃあ、負けたら大人しく輝に従う?」
 輝に? 嫌に決まってんじゃん。きっと特訓もケンカもやめろって言うぜ。でも今更嫌だ何て言えない。だって勝てるに決まってるって、そういっちまったんだから。
「おう、いいぜ」
 オレは負けるのが分かっていて、そう返事をした。
 サムと零は笑ってオレと輝から離れた。絶対に面白がっている。そう、オレが負けるのは確実だって、そう思ってるに違いない。
 まだ心配そうな顔をしている輝は何も言わずにオレを見つめている。オレンジ色の髪が月明かりを受けて輝き、どうしようといった目をサムの方に向ける。でもサムは黙って頷いただけだったから、輝は諦めたようにオレに目を戻す。
 潮風に大きく靡いた自分の髪を振り払って、オレは拳を強く握り締めた。ズキンっと疼く背中から意識を反らそうと、オレは右の拳を後ろに引いて左足を一歩前に出した。姿勢を少し低めに保ち、深く息を吸い込んだ。
「いいぜ、何処からでもかかってきやがれっ」
 輝の瞳が一瞬きらっと強く輝いた。それから唇の端を持ち上げて、本当に楽しそうに笑った。
「そういや、あの時の決着がついてなかったな」
それから、カッコよく拳を握るとたんたんとジャンプした。
「後で泣いても知らないぜ」
「その言葉、そのまま返す」
 オレは走った。出来る限り加速して、輝の懐に向かって思い切り走った。輝が早くもガードを始めているのを見て、それごと吹っ飛ばそうととび蹴りをお見舞いする。勢いで、後ろに滑る輝のガードの上から体重を乗せたパンチも食らわせ、反動を使って砂浜に手を付き、後ろにバク転で下がる。そのついでで、輝を蹴り飛ばした。パァンっと気持ちのいい音が聞こえた。
 五メートルくらい離れてから、オレは顔を上げた。
 真っ直ぐオレを見つめている輝は楽しそうに笑った。さっきのバク転キックはちゃんと当たっていたらしい。輝の腕は赤くなっていた。
「あの馬鹿げた特訓、ちょっとは成果が出たんじゃねぇの?」
「そういう輝こそ、腕が鈍ったんじゃねぇか?」
「手加減してるのがわかんねぇかよ、馬鹿」
 輝は拳を握ると、もの凄い勢いでオレに向かって走ってきた。あのパンチ食らったら、オレの負けは確実だ。キックもそうだけど、オレにとっちゃ命取りだ。なんとしてもよけないと。
 オレはぎりぎりまで避けずに輝を睨みつけて立っていた。そして今だと思った瞬間にしゃがんで、輝の足元を思い切り蹴っ飛ばした。そのまま前に転がって逃げると後ろを振り向いて、輝を見た。
 無様にひっくり返ったらしい、輝は砂浜に頭を突っ込んで倒れていた。どうやら今のところ、オレの方が優勢って事か。チェスで言うなら中心はオレの駒で埋まってる状態か。サムはこれがいつも凄く下手だ。
 オレは満足で立ち上がると輝の上に飛び乗って、オレンジ色の巻き毛を掴んで引っ張った。さっきまで大口叩いていた筈の輝が、どう考えたって弱い。本当に手加減しているだけなんだろうか? なんだか不思議だ。輝のようでちっとも輝らしくない。
「おい、それで終わりかよ?」
 輝はじたばたともがきながら、オレを振り払おうとする。オレよりもずっと背の高い輝は砂まみれの顔を上げた。
「黙れよ」
そう確かに聞こえて、輝はオレの腕を掴んだ。
 訳がわかんねぇうちにオレは投げ飛ばされていた。背中がズキンッと酷く疼いたけど、オレは起き上がろうと目を開ける。目に入ったのは月と空だった。
 でも、すぐに輝の顔に変わった。砂まみれの顔がオレを見下ろして笑い、オレの腕を押さえつけた。そして、腹の辺りに輝の体重を感じた。輝は満足そうに笑って
「太陽、ギブアップした方が身の為だぜ」
と言った。輝が動くたび、砂がぱらぱらと落ちてくる。
 ヤバイ、これはマジでヤバイ。どうにかしないと、オレの負けが決まっちまう。それだけは絶対に避けたい。オレは無敵だって、そう言い聞かせる。急に溢れ出した恐怖を必死で押し殺し、オレは真っ直ぐ輝を睨みつける。
「うるせぇ、黙れ」
 オレは思い切り頭突きを食らわせて、でんぐり返りして逃げた。全身砂まみれで気持ちが悪いけど、払っている暇はない。十分間合いを取って、真っ直ぐ輝の様子を伺う。
 輝は額を押さえながら、真っ直ぐオレを見据えた。痛そうに顔をしかめながら、立ち上がってまた拳を握った。
 味方だと力強いけど、敵にするとかなり厄介な相手だ。先の先までオレの動きを読むし、おまけにめちゃくちゃ強い。どんな戦い方をしようと、オレの動きは簡単に読まれちまう。戦略だって初めから分かっている筈だ。”オレはスタミナがねぇから、長引かせれば輝の勝ち”だって。
 背中が変に濡れている。汗みたいなものじゃない事は確かだ。どうやら傷が開いちまったらしい。無理が祟ったのか、神様が輝を勝たせたいのか、そういうのはわかんねぇけど、オレは髪を払った。何かが傷口に酷く滲みる。でも、オレは歯を食いしばって堪える。
「ちょっと太陽、背中!!」
 サムと零の声が聞こえた。駆け寄ってくる気配も感じる。でも駄目だ、オレは此処でギブアップなんて出来ないんだ。手負いであろうが、なんだろうが、オレはこのケンカから手を引くことは出来ない。
「邪魔すんじゃねぇっ」
 オレは二人を真っ直ぐ見つめた。急に痛みに襲われて、冷や汗が流れ出すけど、そんなのお構いなしにオレは二人を見つめた。頼むよ、もう少しだけでいいから邪魔しないでくれって、そういう意味を込めて。
 二人は心配そうな顔をしながらも立ち止まった。オレは笑ってそんな二人に手を振ると、輝に向き直った。
「太陽、もうやめようぜ。血が……」
 輝はそう言って、オレを指差す。
 足元はもう血で濡れていた。砂が真っ赤な血を吸ってどす黒く変色している。オレの背中はますます酷く痛む。目まで霞んできやがった。真っ直ぐ立っているのがつらい。それでも構うもんかと、オレは拳を握った。
「やめたきゃ、輝がギブアップすれば?」
「太陽、本当にいい加減にしろよ」
 輝が心配そうな顔をして、オレを見つめる。さざ波が辺りに響く。また強く吹き抜けた冷たい潮風に、輝の髪が揺れた。同時に真っ白な砂がはらはらと散った。
 オレは駆け出した。向かい風に負けそうになるけど、拳を握ったまま、真っ直ぐ走った。輝の懐に突っ込んでいって、それからどうするかなんて何も考えちゃいない。考えれば輝に読まれるのがオチだ。だったら何も考えずに、体の動いてくれるがままに暴れるのが最善だろう。
「いい加減にするのはそっちだろうがよぉっ!!」
そう無意識のうちに怒鳴り、輝の顔面に向かって拳をむけた。
 何がどうなっていたのかは一瞬で、よく分からなかった。ただ、殴ろうとした右の手首を掴まれて、気が付いたら捻りあげられていた。ズキッと背中が痛む。腕も痛い。でも、オレには身動きが出来ない。目の前に見えるのは水平線で、漆黒の海は月明かりに照らされているだけ。
 輝はオレの後ろにいた。耳元に口を寄せて
「負けを認めろ」
と小さく囁いた。
 悔しかった。急に涙が出て、頬はべちゃべちゃになった。まだだ、諦めなかったら絶対に勝てるって自分に言い聞かせる。そして、痛む背中に意識を集中させる。
 どうしてオレがこんな怪我したんだよ? そう、輝を守りたかったから。でも結果はどうだよ、逆に輝を強くした。オレは弱くてちっぽけな、自分を無敵と言い張る馬鹿ガキのまま。強くなりたい? だったら自分と向き合わなくちゃ。向き合って、自分の弱さを克服しなくちゃ。泣いてて何が変わるんだよ。ママはもう居ないんだぜ?
「畜生っ!!」
 オレはそう吐き捨てて、逆に輝の腕を掴んだ。そして力任せに輝を受け流した。前に見た事のある、合気道の動きだ。相手の力に反発したって勝てっこないんだ、利用して受け流してやる。
 また血がぽたぽたと垂れた。背中に押し当てられていた右腕が真っ赤な血で汚れていた。どす黒い、真っ赤な血。月明かりに照らされて、きらっと輝いた。
 その瞬間だった、血塗れの家族の姿が頭を過ぎった。ずっと忘れていた筈の忌々しい記憶。忘れたくて仕方がない、そんな記憶が蘇った。
 手が震えた。溢れた涙が止まらない。怖い、ひとりぼっちであの物置に居るのは怖い。でも呼べる人なんかいない。必死で零の姿を探すけど、家は広すぎてなかなか見つからない。嫌だ、一人にしないで。何処にも行っちゃ嫌だっ……。
 ドカッと、重い何かをみぞおちに感じた。涙で霞んで何かは分からなかったけど、急に意識が遠くなっていくのが分かった。暖かい、大きな腕が力が抜けてくオレをそっと抱きしめてくれた。甘いシャンプーの香りが鼻をくすぐった。何処か懐かしい、優しい香りだった。

 気が付くと、オレはベッドに寝かされていた。
 外はもう明るくて、すぐ近くに輝が居る。ぐっすりと眠っているのか、ベッドに突っ伏している。見慣れたトランクとローファーがある。そうか此処はオレの泊まってるホテルの部屋かと、すぐに気が付いて起き上がった。
 ズキンと背中が疼く。何かが貼ってあるらしいのも感じる。またガーゼか何かだろう。あれだけ血が出たんだし、当然か。腕には点滴の針が刺さっていた。チューブの中を真っ赤な血が流れている。そうか、輸血を受けてる真っ最中なのか。
 オレは輝を見た。
 そういえば、あの決闘はどうなったんだろう。何も覚えていない。凄く怖いものを思い出して、背中の傷が開いた辺りまではなんとなく覚えている。でも、決着がついたのかどうか、さっぱり分からない。
「気が付いた?」
 優しいサムの声が聞こえた。近くの長いすに腰掛けている。その膝に頭を乗せたまま、ぐっすりとよく眠っている零もいる。
 サムはそっと零の頭を椅子に乗せると、その肩に薄いタオルケットを掛けて立ち上がった。オレの前まで来るとそっとベッドに腰掛けた。すぐ近くの輝をみて、零と同じようにタオルケットを掛けた。よく寝ているらしい、起きる気配は全く感じられない。
「もう無茶しちゃ駄目だよ」
「……おう」
 なんだか優しすぎて不自然なサムの顔をじっと見つめて、オレは頷いた。さらさらと揺れるサムの髪が急に怖くなった。血のような真っ赤。
「さてと、輝も起こそうか」
 サムはそう笑うと、まだよく眠っている輝の肩を揺すった。
 鬱陶しそうに顔を上げて、輝は目をこすった。そして、オレを見た。
「太陽、大丈夫かよ?」
急に深刻そうな顔をした、輝はオレに言った。優しく髪を撫でて、オレの顔を覗き込む。凄く優しい目をしていた。
 オレは黙って頷いた。そして、一番気になる質問を、二人の親友に浴びせた。
「なあ、オレは負けたのか?」
 輝は何も言わずに目を反らし、サムは優しい笑顔を浮かべる。オレ、マジで負けたの?
「怪我が完全に治ってたら、太陽の勝ちだったんだけどね」
ええ? ちょっと待てよ、オレが? 
 でもサムはめちゃくちゃ真面目な顔をしたまま、オレをじっと見つめている。優しい視線の中に、何処か哀れみみたいなのが混じっている。気持ちが悪い。
 すると、隣りの輝が
「いいや、違う」
と、オレに背中を向けたまま言った。
「あの時、太陽が何でなのかはしらねぇけど、泣いていたから勝てたんだ。あのままだったら、オレが負けてた」
 何処か悔しそうな声だった。輝らしくない、震える涙声。
背中は凄く小さくて、オレは凄くびっくりした。
 そうか、オレはあの時血が怖くて、決闘の真っ最中だって事を忘れちまってたんだ。涙で何も見えなくて、オレは一人で泣いていたんだ。あれさえなかったら、本当に輝に勝てていたんだろうか?
「あれだけ特訓したのに、もう追いつかれちまったのかよ」
 悔しそうな輝の声にオレは笑った。そうか、遠いとしか思っていなかった輝の背中は思ったよりも近くにあったんだ。いつの間にか追いついていて、肩を並べて走ってた。オレは無敵じゃねぇけど、弱くもねぇんだ。そう思うと、凄くほっとした。
「でも負けは負けでしょ?」
 サムが意地悪く笑った。
 輝がニヤッと笑って振り向いて
「太陽、大人しくオレに従うんだったよなぁ?」
と凄く楽しそうに笑った。柔らかい輝の腕を肩に感じて、オレは笑った。悔しいけど、また次に頑張ればいいや。オレは弱くねぇんだから。
「いいぜ、大人しく従ってやろうじゃねぇか」
「じゃあ、当分暴れんな」
「はあ?」
「ケンカは絶対に禁止」
 輝はそれから笑って、オレの頭をわさわさと撫でた。むっとしながらも大人しく頷くしかないオレは何も言わず、大人しく輝にされるがままだった。ちょっとムカつくけどな。
「分かったよ、ケンカはやめます」
 暖かい輝の腕に凭れて、オレは笑った。ほんのちょっぴり悔しくて、そして追いついていた事への嬉しさで涙が溢れるけど、拭う必要はなかった。無敵じゃなくてもそばに居てくれる二人の親友が笑って慰めてくれる。無敵じゃなくても居させてくれる、世界に三人しか居ない親友達の輪の中で……。

 その日、オレは砂浜で零と砂の山を作って遊んだ。
 輝が怒るから、海には入れない。従わなかったら殴り飛ばされそうだし、これ以上痛い目にはあいたくない。背中はまだズキズキと疼く。こんな状態で夏休みが終わっちまったら悲しいだけじゃねぇかよ。
 真っ白な砂を集めて大きな山を作ると、零は楽しそうに笑った。そんなに楽しいのか、コレ……。
 オレは暇で暇で仕方がないから、大きなため息をついて空を見上げた。雲ひとつない真っ青な空。鳥が頭上を掠めて行くのを目で追いながら、パラソルの下で楽しそうに読書中の空兄を見る。
 浅瀬で遊んでいる輝とサムが羨ましいけど、文句は言えない。大人しくしているしかないのか。そう思うとますます気分は落ち込む。大体、オレにはじっとしている事ほどつらいことはねぇんだぜ。それなのに、遊び相手の輝もいない。
「太陽、輝とその辺を散歩してきたらどうですか?」
「嫌だ」
 やっぱり負けちまったのが悔しい。一緒に散歩なんかしたら殴り飛ばしちまいかねないじゃねぇか。オレ、無敵じゃなくなっちまったんだぜ。不利だったとしても、負けちまったら無敵なんかじゃない。オレは映画の主人公みたいに強くない。その事実と向き合えない弱い自分が居て、ますます落ち込んじまう。
 大きなため息をついて、オレは水平線の彼方に目を凝らしてはつまらない夏休みになっちまったなぁと小さく呟いた。小さな雲が風に乗って過ぎていく。それをじっと目で追いかけては、また大きなため息をつく。
「暇だったら、俺とかくれんぼしようよ」
 すぐ隣りから声が聞こえて、オレは首を向ける。真っ赤な髪の青い目がニコニコしながらオレに向けられている。でもサムじゃない。サムは海の中に居る。
「あっ」
 零が突然立ち上がってオレを突き飛ばした。日傘を竹刀のように構えて、オスカーを真っ直ぐ見据えた零は
「太陽に何のようですか?」
とかなり怖い口調で怒鳴った。さらっと揺れた真っ黒な髪が凄く綺麗で、オレは目を見開いたまま座り込んでいた。傘でチャンバラなんて懐かしいなぁと思いつつ、オレは黙って顔を上げた。
「別に、賢治が忙しくて相手してくれないから遊びに来ただけだよ」
 サムがこっちに気が付いて、こそっと輝の後ろに隠れた。頭を抱えている所から見て、やっぱり前の事を引きずっているらしい。気にしてないフリしやがって、全然平気じゃねぇだろ。
「ねぇ、かくれんぼしようよ☆」
「誰がするか、ボケッ」
「あ、またそんな事を……」
 オスカーはニコニコしながら、オレの隣りに腰を下ろした。サムよりも健康的な肌の色をしたオスカーはオレよりもずっと背が高いからなんだか少し怖かった。怪我してるのに敵の近くに居て大丈夫なのかよ? とは思いつつ、輝がズカズカとこっちに近寄ってくるのを目で追いかけた。
 輝はオレの腕を引っ張って立たせると、オスカーから引き離すようにオレを突き飛ばした。おかげでオレは砂浜に顔面から突っ込んで、おまけに波で全身ずぶ濡れになった。塩水だからか、傷跡に凄く滲みる。
「オスカー、オレの目の前から消えろ」
 輝は低い声でそう言った。
 顔を上げて振り向くと、輝の背中が見えた。髪から滴る雫で見えずらいけど、オレは前髪を手櫛で後ろに梳いた。頬を滑り落ちる海水が凄く冷たいと感じた。不思議だ、冷たい筈なんてないのに。
 輝の背中は不思議なくらい大きかった。じりじりと照りつける太陽の下に居る筈なのに、ひんやりと冷たく感じる潮風に輝の髪が揺れる。その度に風に乗って伝わってくる、強い殺気が恐ろしかった。観光客達がきゃっきゃと騒ぎながら近くを走り抜けていく中で、不思議なくらい暗い輝の背中を見ていられなかった。
 サムと零も同じ事を考えていたらしい。ただじっと恐ろしいものでも見つめているかのように、怯えたような瞳を向けている。輝の殺気を運んだ潮風はサムと零の恐怖をのせて吹き抜けていった。
 オレは見ていられなくて、立ち上がって輝の背中を突き飛ばしオスカーの前に立った。そして迷わずヤツの胸倉を掴んだ。オレのびしょびしょに濡れた手がオスカーのシャツを濡らす。それを黙って見ないフリすると
「言っとくけど、オレは敵と遊ぶほどの馬鹿じゃねぇから」
と、自分の中では一番低い声で言った。
「あのさぁ、服が濡れちゃうんだけどぉ」
 オスカーはふざけた口調でまだそんな事を言うから、オレはそのまま腕を掴み、海へ投げ飛ばした。コレ、なんていうんだったっけ? ああ、柔道だ。
「おい、暴れるなって」
 輝がオレの肩を叩いて、心配そうな顔をした。髪がべっちゃりと頬に張り付いて鬱陶しいから、オレは右手で髪を慎重に払いながら輝を見た。輝は何も言わずに黙って、オレの髪を撫でてくれた。怒ってはいないらしい。
「じっとしてろよ、オレなら大丈夫だから」
「輝、オレに見てろって?」
「そう言ってんだよ」
 輝は優しく笑ってから頭をぽんっと叩いて、背中を向けた。零とサムに引っ張られて、オレは大人しく後ろに下がる。サムが真剣な目をオレに向けて、大人しくしていろって目で言っている。零も黙ってオレの腕を引っ張るから、信じなくちゃいけないなぁとそう思った。
 でも分かってたんだ。オレが輝の邪魔しようが無駄だって。輝はオスカーなんかに負けるほど弱くない、ナイトの仮面をかぶったクイーンなんだから。
 オスカーは髪からだらだらと水を垂らしながら、こっちを見た。恐ろしいくらい冷たい瞳がオレを見て、それから輝に移った。自信満々の強い瞳が怖いのか、ヤツは輝から目を反らした。
「おい、オスカー。どうしてあんなのの言いなりになってんだよ」
「俺だって、好きで手伝ってるんじゃない」
 悲しそうな顔をしたオスカーを見て、輝はさっきまで握っていた拳を降ろした。不思議そうにオスカーに近寄って行って顔を覗き込む。
「オスカー?」
 その時だった。
 オスカーは輝の腹を思い切り殴って、オレに向かって笑った。ちょっと意地悪そうな、嫌な笑顔だった。
「ごめんね、輝。でも俺は生きる目標を見つけちゃったから死ねないんだ♪」
そう言って、オスカーはオレに向かってウィンクを飛ばした。う〜ん、よく分からないヤツだなぁ。一体何がしたいんだろう。
 オスカーは笑いながらオレ達四人に手を振ると、こっちに向かって走ってきた水上バイクに飛び乗った。凄く身軽で、サタナエルとの息もぴったり。”HELL”のチームワークはスカイブルー以上だ。
 運転していたのはサタナエルで、またドライスーツを着ていて背中には酸素ボンベみたいなものを背負っている。そうか、珊瑚を狙ってるのかとすぐに感づいた。
 オレは咳き込みながら二人を睨みつける輝の背中を叩いて駆け出した。遠ざかり始める二人に追いつくと、迷わず飛びついた。足に絡まる冷たい海水を蹴散らして、オレはオスカーの髪を引っ張った。
「テメェの生きる目標がなんだかしらねぇけどなぁ、オレは悪事を見逃したりしねぇんだよ!!」
 そして、二人を水上バイクから突き落とした。ちょっと梃子摺ったが、上手くいったから気にしない。横取りした水上バイクから鍵を引き抜き、オレは力一杯サムに向かって投げた。運動音痴のサムが上手く掴んでくれたから、オレは迷わず、陸に向かって走った。
 輝が反対に海に向かって走ってくる。オレは輝と掌を打ち合わせて
「交代」
と笑った。
 オレ達から離れるように走るオスカーは零が日傘でボコボコにして、浅瀬でよろよろしながら起き上がったサタナエルは輝が取り押さえた。二人を探しに来た”HELL”の連中はオレ達を見て逃げ出した。
 オレはそんな連中の背中に向かって
「オレ達か逃げられると思うなよ、いつか必ず”HELL”なんかぶっ潰してやるからな!!」
と怒鳴りつけた。

 その後、騒ぎに気が付いた地元の警察にサタナエルとオスカーを引き渡した。あの二人が乗っていた水上バイクのタンク内にあった珊瑚の山のおかげで二人は刑務所行き。これで”HELL”は壊滅したも同然だろう。
 ただ、オレ達四人は新聞社やカメラに追い回される羽目になった。トロイの事とかピカソの絵画、奈良の古文書とか、オレ達のやった事はいつの間にか大げさに報道される一方。なんとなく、有名人がパパラッチから逃げ回る理由が分かった気がする。普通が一番なんだよな、何事も。
 翌日の新聞とにらめっこしながら、サムは大きなため息をついた。湯気の立っているマグカップに手を伸ばして、オスカーの記事をじっと見つめながら、頭を抱えているサムはずっとこの調子だ。
 それもその筈。サムの事が記事になっちゃってるのだ。オスカーとサムの事が。
 オレがさっき見た新聞(空兄が訳してくれた)にはこう書いてあった。

スカイブルーのトレジャーハンターがお手柄

グレートバリアリーフの珊瑚を乱獲していた
”HELL”という組織の主犯格の子供二人を捕らえた
”スカイブルーのトレジャーハンター”と名乗る
四人の子供達のうち一人が、
捕まった子供の双子の兄である事が判明した。
二人の姿を見た者は皆、口をそろえて
「双子に間違いない」
といっているが二人は否定している。
”HELL”はこれまでにも
日本の仏像やトロイの遺産、ピカソの絵画などを
盗み出そうとした事が分かっているため、
余罪を追及する見通し。


とか、ほかにも

スカイブルーのトレジャーハンターに迫る

今回の事件で一躍有名になった四人組
”スカイブルーのトレジャーハンター”
彼らは日本の中学生である事が
当社の調べで分かった。
現在滞在していると思われる
ホテルの従業員の話によると
金髪の小柄な少女と
オレンジ色の髪をした巻き毛の少年が
一緒に居る所をよく目撃するという。
今回の事件の犯人の兄と推定される少年は
真紅の髪に白人のような肌をしているとの証言があった。 もう一人の少女はあまり目撃されていないようだ。
四人は近く、日本に帰国する。


と、オレ達の知らない間に新聞はにぎわっている。
 オレは輝の隣りで大人しく映画を見ながら、大きなため息をついた。日本に帰ったら凄い騒ぎになっているだろうなぁ。おばさん達だって、気が付かない筈ない。怒られて、もうトレジャーハンターが出来なくなっちまうんじゃないかと思ったら急に怖くなった。
 輝は特に気にもしていないみたいで、楽しそうにグミを食べている。ジュースを飲みながら、映画に夢中だ。そりゃそうか、輝にはちゃんと空兄っていう理解者がいて、絶対に味方してくれるんだもんなぁ。オレはトレジャーハンターの事を家族に話す事も出来ないまま、全てを失っちまった。
 サムは死んだと思っていた双子の弟の事で悩みっぱなし。生きていたと分かったのはよかったけど、今度はそんなヤツが敵になる。それを気にしているのか、サムはオスカーと向き合って戦おうとはしない。
 このままじゃ、スカイブルーのトレジャーハンターって名乗っていられなくなるんじゃないか。一人欠け、二人欠け、いつしかオレ一人だけになるかもしれない。それでもオレは胸を張っていられるだろうか。自信はない。でも、今だけでいい。今だけは胸を張っていたい。
「なあ、輝」
 オレは隣りの輝に声を掛けた。不思議そうにこっちを見た輝の肩に凭れて
「ずっと、トレジャーハンターやろうな」
と囁いた。
 オレに出来る事はこう言う事だけだから、せめて出来る事だけはしなくちゃ。いつか離れ離れになってしまう、そんな運命だったとしても、後悔だけはしたくない。真っ直ぐ前を向いて、今出来る事を精一杯頑張るんだ。例えもう二度と会えなくなってしまったとしても、連絡さえ出来なくなってしまったとしても、この空の下に居る限りいつか必ずまた会えると信じて笑い合える強い絆を手に入れる為に。
 笑って頷き、オレの肩を痛いほど強く叩いた輝は
「あったりまえだろ」
とはっきり言ってくれた。
 オレは立ち上がると、三人に向かって笑った。
「海岸に行って歌おうぜ」
「またカメラに追い回されるよ」
「カメラが怖くてトレジャーハンターなんか出来ねぇぞ!」
 オレはいやそうな顔をしていたサムの腕を引っ張って、楽しそうにギターを持った輝と零の前を歩き出した。この四人がずっとずっと永遠にトレジャーハンターを出来ますようにと願いを込めて、オレは声を張り上げる。
「オレ達陽気なトレジャーハンタぁ〜 どんな時も絆は固いぃ〜♪」
 そう、ダイアモンドも真っ二つに出来るほど硬くて強い絆。決して目には見えないけれど、それはこの命よりもずっとずっと大切な本当の宝物なんだ。そう、この絆があるからこそ、オレは強く生きていける。一人じゃないって、そう思えるんだ。
 後ろをついてくる三人も歌っている。
 オレは地面を強く蹴って、ホテルの廊下を駆け抜ける。声はこれ以上でないってくらい張り上げて、楽しそうに歌う親友達を感じながら、オレは階段を駆け下りる。
「無敵のオレ達、スカイブルーのトレジャーハンターさ♪」
 そう、オレは心から信じてる。
 例え、全てが敵だったとしても、この四人だったら絶対に負ける筈はない。だってそうだろ? 無敵のオレ達が手を組めば、ゴジラもキングコングも敵じゃない。オレ達は無敵のスカイブルーのトレジャーハンターなんだから……。




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