スカイブルーのトレジャーハンター
世界はいつでも戦争の色
桜井もみじ☆




 太陽が引っ越してからもう二日が経った。
 田んぼの真ん中を派手なパンク風のシャツに真っ赤なミニスカートのカッコで歩く金髪の女がいない空色町はめちゃくちゃ静かで平和だった。アイツの面影を感じさせるものは空を見上げればいつだってある、大きな太陽だけだ。それを見るといつだって、あの眩し過ぎるくらいの優しい笑顔を思い出した。
 オレは窓から空を見上げて深いため息をついた。
 いつもだったら太陽が遊びに来る時間なのに、今日はドアをノックしに来る気配さえない。それもそうか、太陽はこの空色町にはいないんだから。太陽だけじゃない。親友の零もいないんだから。
 ケータイは相変わらず鳴りそうもない。そこそこパソコンだって使える筈なのに、全くメールが来ない。こっちから何度かメールしたけど、やっぱり返事はない。
 太陽は今何処で何をしているんだろう。オレやサムの事はもう忘れちまったのかな? 零の家で何かあったんじゃないのかな? でも、今のオレにはどうする事も出来ない。
 すると、兄貴が凄く慌てた様子で、聴診器とか薬とかが入っている往診用の鞄を持って廊下を走っていく姿が見えた。兄貴がこんな風に走っている事なんて滅多にない事だから、きっと何かがあったに違いない。
 オレは廊下に出て、そんな兄貴の背中を追いかけた。
「おい兄貴、何があったんだよ?」
走りながら、オレは声を張り上げた。長い廊下を猛スピードで走っていった兄貴の姿はすぐに見えなくなったけど、声は届いたらしい。兄貴は戻ってきて、オレの腕を掴んで走り出した。
「兄貴?」
「黙ってついて来い」
 兄貴は苦しそうに息をしながら玄関まで走っていくと、その辺にあったスリッパを履いて乱暴にドアを開けた。いかにも昼寝してましたって感じの寝癖がついた髪を振り乱して、車の用意をしている。
 オレは下駄を履くと、そんな兄貴の背中を追いかけて車に乗った。そして助手席に座ると古い洋楽ばっかり入ったCDを掛けて、兄貴が別の鞄を持って乗ってくるのを大人しく待っていた。
「おい、輝。勝手にCDを変えるな」
 慌てて車に乗ってきた兄貴が、重い鞄をオレの膝の上に置いて言った。少し怒っているらしい。勝手にって、兄貴の趣味は何処までも悪いぞ。

「いいじゃん、別に」
「オレはお前と違って洋楽が好きじゃないんだよ」
「兄貴、急いでたんじゃないのか?」
 オレは兄貴にそう言って、とりあえず黙った。
 急患だって事は確かだ。それもオレの知っている人間だって事も。内科医の兄貴が呼ばれたって事は、風邪か何かだって事も。ただ、それが誰なのか、オレには何一つ教えられないらしい。まあ、着けば分かる事だけど。
 しばらくすると、零の家が見えてきた。此処にくるの、一体何年ぶりだろう。小さい頃はよくサムと一緒に遊びに来た。あんまり好きではなかったけど、なぜか一緒に遊んでいたっけ?
 ふと見るとサムの自転車が玄関のところに止めてあった。サム、オレに黙って零のところに遊びに行ってやがったのか? 裏切り者!!
 零の家は大きい。子供の頃に見た時はぎょっとした。こんなに大きな建物を見たのは近所にある空色城くらいだと、本気でそう思ったっけ? 相変わらず大きな家だ。古いんだけど、大きな土地にある。
 近くの空き地(これも零の家が所有しているらしい)に車を止めると、兄貴は鞄をオレに押し付けてさっさと零の家の方に走っていってしまった。
 オレは仕方がないから鞄を抱えてゆっくりと兄貴の行った方向に歩いた。それにしても重いな。一体この鞄には何が入っているんだろう?
 やっとの事で玄関にたどり着くと、サムが立っていた。そして軽い方の鞄を持つと
「行くよ、空兄が待ってるから」
と言ってゆっくりと歩き始めた。オレはそんなサムの後ろを追いかけて、歩いた。
 零とイチャついているもんだと思っていたオレはサムがまさか出迎えるとは思っていなかったからびっくりしていた。
 しんと静まり返った家の中にはほかに誰もいないらしい。近くの部屋には気配がない。太陽の気配さえ感じられない。普通だったらおばさん達と太陽と零がいる筈なのに気配すら感じられない。
 踏むたびにぎしぎしと音がする床はくすんだ茶色で、この建物の古さを物語っていた。まあ、オレの家も同じようなもんだけど、何度か増築したりリフォームしたりしているから、こんなに古いって感じはしない。
 しばらく歩くと、どう見たって物置のドアの前に着いた。サムがそのドアを軽くノックして、ドアを横に引いた。木で出来た古そうなそれは、がたがたと凄い音を立てながら、ときどき動かなくなったりしながら何とか開いた。
 オレは少し躊躇いながらドアの中を見た。
 ひんやりとして涼しいというよりは寒い物置だ。ライオンのぬいぐるみとプラスチックの刀が床に放り出されている。古いCDラジカセと蓄音機が窓際に置かれていて、山積みになったレコードを見知らぬ兄ちゃんがいじっている。その手前に置かれた小さなベッドの上に太陽が眠っていた。ベッドの上には読みかけの本が置いてあった。カバーがあって分からないけど、ハードカバーの大きな本だった。
 兄貴が太陽の前にしゃがんで様子を見ていた。オレに気がつくと鞄をよこせと命令して、手を出した。オレはむっとしながら兄貴の手に鞄を押し付けた。
 零が後ろからオレの肩を叩いた。
「お久しぶりですね、輝さん」
「零、何があったんだよ?」
 オレがそう零に尋ねると、零は少し悲しそうな顔をしてうつむいた。
「太陽、突然熱を出しちゃったんです」
「熱?」
「最近はずっと元気もなくてご飯もちゃんと食べていなかったから」
 零はそれからいすを引っ張り出すとオレに座ってといい、自分はベッドに腰を下ろした。
「ごめんね、空」
 見知らぬ兄ちゃんが突然兄貴に向かって言った。
 長い黒髪を右側の低い位置で一つに束ねていて、いかにも賢そうな顔をしている。何処となく零に似て……そうだ、泉の兄貴だ。零の兄貴で、めちゃくちゃ頭のいい人だ。確か兄貴の大学の同級生とか言ってたっけ? 長い間会ってなかったから分からなかった。オレが知っている泉の兄貴は高校生くらいで、幼稚園児だったオレに難しい本を読んでくれたのが最後だ。
「何が?」
 兄貴は不思議そうな顔をして泉兄を見た。
「オレ、外科でしょ? 専門は心臓外科だからさぁ、風邪とかそういうのはあんまりよく覚えてないんだよね」
「オレだって解剖学なんか覚えてないから」
「気絶しちゃったもんねぇ〜♪」
 泉兄はそう言ってにやっと微笑むとオレの前にしゃがんだ。
 相変わらず、分厚い瓶底眼鏡をかけている。視力はよくないらしいけど、兄貴の話じゃ天才外科医だって聞いている。病院では『平成のブラックジャック』なんて変なニックネームをつけられたとか、兄貴がむすっとした顔で話してたっけ?
「輝くん、大きくなったね。オレの事を覚えてる?」
「なんとなくは」
 オレは少しびっくりしながら泉兄を見つめていた。背がめちゃくちゃ高い。昔は兄貴よりも背が低くて、めちゃくちゃ強気の変なオカルト馬鹿の兄貴だったような気がしてたんだけど、いつの間にか大人になってる。
 兄貴は少し怒った顔で泉兄を見た。
「おい、何が白血病だ」
「え? 違った?」
 泉兄は無邪気に笑って、兄貴の顔を覗き込んだ。さらさらと髪が揺れている。この眼鏡、外したらどんな顔をしてるのか見てみたい。眼鏡のせいで顔がよく分からないから気になる。
「これは貧血でもストレス性の食欲不振から来る貧血だ。血が足りてないとか白血病とか、そういう問題じゃない」
「え〜? じゃあ、今回はオレの出番なしじゃん」
「当然だ、処置として出来る事は栄養剤の点滴くらい。あとはストレスの元をどうにかするしかないんだよ。内科っていうよりは精神科医の専門分野だ」
 兄貴はそれから黙って鞄を開けると、大きなの水みたいなものが入った袋を取り出して、チューブとか針とかを繋げて見慣れた点滴の形にした。泉兄がそれを見ながら兄貴の鞄の中に手を入れて、コットンみたいなもさもさしたのに何かの薬をしみこませた。
「零、ちょっと手伝ってくれる?」
 泉兄はそう言って零を呼ぶと、太陽の腕を捲ってと言った。それから、零が捲ったのを見て、ひじの内側をそれでよく拭いた。手つきはやっぱり慣れた様子だった。
 ああ、注射の時のあれかとなんとなく分かってから、オレは見るのをやめようと寝ている太陽の顔を覗き込んだ。見たくはなかったけど、あの太陽がストレス性の食欲不振なんて馬鹿な事ある筈ないだろと思ったんだ。アイツの胃袋はブラックホールだぞ。山のように積んであった筈の寿司、五分で全部食っちまったんだから。
 太陽は静かに眠っていた。顔は真っ青で、口唇も紫色。死んでるのかと思うほど、呼吸もゆっくりだ。それなのに触れた額は熱くって、信じられなかった。あの太陽が?
 兄貴はオレの肩を叩いて
「隣りに座っててやれ」
とささやくと泉兄を引っ張って部屋を出て行った。

 太陽はそれから二十分後に目を覚ました。
 起き上がると頭に血が上らないから酷い立ちくらみを起こすらしく、ずっと寝たままなんだと零が話していた。心配そうに太陽を見ていたサムも、そのうち零と一緒に部屋を出て行ってしまったから、今はオレと太陽しかいない。
 太陽は目を覚ますとオレをまず見た。
 寂しそうな色をしていた太陽の目はすぐに嬉しそうににこっと微笑んで、それから起き上がった。すぐに気分悪そうな顔をしたから、寝てろと言ってはみたけど聞かなかった。ただ、黙ってオレの肩に抱きついて、静かに泣き出した。
 訳が分からなかったけど、このまま泣かせておいた方がいいと思って、オレはそんな太陽の背中を黙って撫でた。太陽はこんなに小さかったんだなと、唐突にオレはそう思った。いつもは誰かを守る為に背中を向けて戦っているからとても大きく感じていたのに、太陽は本当に小さかった。
 しばらくして太陽が落ち着くと、サムと零が部屋に戻ってきた。
「太陽、すっきりした?」
 サムがそう言って太陽の頭をぽんぽんと叩くと、太陽は小さく頷いた。抱きついたまま、オレから離れようとしない。少し前にもこんな事があったっけ? あの時は悔し泣きだったけど、今は違う。サムや零が不思議そうな顔をしている所から見て、オレ以外の人間前では泣いていないらしい。なのに、オレはどうして泣いているのかがよく分からない。家族がいなくなって寂しいんだったら、こんなふうには泣かない筈だろ。
「俺、そろそろ帰るよ、空兄も帰るって言ってるし」
 サムは太陽の顔を少し覗いてから笑った。
「輝はどうする?」
「じゃあ、帰ろうかな」
 太陽は大人しく手を離すと、顔をあげた。
「明日も来る?」
 細い声が聞こえた。オレは黙って頷いた。サムも同じように笑って頷いた。零が嬉しそうに笑ったのが見えて、オレは少し笑った。
「絶対だからな」
 太陽がそう言ってにこっと笑うのを確認してから、オレは部屋を出た。最後に振り返って手を振ると、太陽は凄くつらそうな顔をして手を振っていた。なぜかその顔を見ていられなくて、オレはさっさと部屋を離れた。
 サムとは玄関で別れた。
 零と仲良く歩いていたサムは少し名残惜しそうに笑って、それから寂しそうに手を振った。そんな背中を黙って見ながら優しく笑った零に、サムは
「また明日も来るから」
とささやいてから自転車に乗って帰った。何処かの貴族の紳士みたいな顔をしていた。
 オレは零の肩を叩いて
「熱いねぇ」
と呟くと笑った。すると零は少し怒った顔でオレに手を振って
「もう来ないで下さい、邪魔です」
と言い、軽くオレを殴った。兄貴が笑っているのを見て、オレはも少し笑わせてやろうと
「いやぁ〜、暴力反対〜!!」
と叫んで車に逃げ込んだ。
 兄貴が腹を抱えて笑っているから、オレはそんな兄貴の背中をぽんぽんと叩いて、それから零に手を振った。だんだん零が遠くなっていくのを黙って見ながら、オレは少し考えた。今までずっと見送る側だったから、見送られるのは久々だなって。
「輝」
 兄貴が急に真面目な顔をしてオレを見た。
「ん?」
 オレは兄貴を見た。後ろの席に積んでいる鞄が座席の下に落ちた。どさっという音がして、オレは後ろを振り返った。重い方の鞄はまだ座席に乗っている。オレは床に落ちた方を自分の膝の上に置いた。
「太陽ちゃん、よくならないかもしれない」
「え、どういう事だよ?」
「今まではいろんな人に支えられていたから、あんなに強かったんだ。根っこを支えていた家族を失って一人になったんだ。お前やサムとも学校が離れちまって独りぼっちになっちまって、立っている事が出来なくなっちまったんだよ」
 兄貴は少し悲しそうな顔をして、それから車を止めた。顔を上げると、もう家についていた。それなのに兄貴は車から降りようとしない。
「兄貴?」
「輝、お前しか太陽ちゃんを助けてやれないんだからな」
「はあ?」
「そのうち分かるよ」
面白そうに笑った兄貴はそれ以上何も言わず、車を降りた。
 オレはそんな兄貴を追いかけて車を降りたけど、その後すぐに誰かに声を掛けられた。
 何処かで聞いた事のある声、でもあんまりよく覚えていない。静かで低い、柔らかい声だった。確か電話で何度か聞いた事がある。誰だったっけ?
「母さん、帰ってたの?」
 兄貴がそう言って、オレの腕に鞄を押し付けた。
 母さん? オレの記憶の中にはほとんどない人間じゃねぇか。最後に見たのは五年前の筈だろ? オレと兄貴の事をほったらかしにして、一体今まで何処に居たんだよ?
 顔を見たくもなかったし仕方がないから、オレはそれを持ってさっさと部屋に戻ろうと離れに向かって歩こうとした。だけど誰かに腕を掴まれて立ち止まった。
「輝か?」
 親父の声だった。此処は否定してさっさと逃げるべきか? なんせ今のオレは髪の毛がオレンジ色で、白いカッターシャツのボタンは二つ目まで外しているという、結構不良っぽいカッコなんだから。電話でしか存在を確認した事がない、うるさいクソ親父がなんていうだろう。考えただけで気分が悪くなる。
「返事をしないか」
 親父はそう怒鳴るとオレの腕を強く引っ張った。
 オレははっきり言って腸が煮えくり返っていた。おいおい、今まで放ったらかしにしていた癖にひょろっと帰ってくるなり親父面かよ?
「……るせぇんだよ、クソジジイ」
 兄貴の鞄を放り出して、オレは親父に向き直った。深く息を吸い込んで自分に落ち着けと言い聞かせてはみるけど、腹が立って仕方がない。
「輝、おちつけ」
 兄貴がオレの右腕を引っ張ってそうささやく。
 親父がオレの巻き毛を引っ張って、じっとオレを睨みつける。兄貴と同じストレートヘアの親父は、怒った顔のままでオレを睨みつける。
「何なんだこの髪は」
それから髪を思いっきり引っ張って
「こんなに長く伸ばして脱色して、一体何のつもりだ」
と大声で怒鳴る。自転車で家の前を通りがかったサムが不思議そうにオレを見ている。助けるつもりはないらしい。くっそぉ〜、今回は兄貴まで敵かよ? 味方がいねぇじゃねぇか!! 
 オレは落ち着いて、ゆっくりと考えた。
 どうせ、オレが何をしていても腹が立つんだから、何を言ったって無駄だ。殴ったら怪我をさせて、オレが悪いって事にされる。それだったら無視するのが一番いい手だろ?
「聞いているのか、輝」
 親父はそう言ってオレの肩を思いっきり揺すって、叩くつもりなのか腕を振り上げた。太陽だったらこういう時には必ず受け止めて、その力を応用して、自分の体重を上手く乗せたパンチで殴り返す。
 でも、オレにはそんな技術がない。
 腕の力だけで殴るし、受け止めはせずに避けて、空振りをした相手の鳩尾に重い一発をお見舞いする。でも、そんな手は使えない。右腕は兄貴が掴んでいるんだ。左腕だけでどうやって?
 目を閉じて太陽の動きを思い出した。
 左腕を持ち上げてガードすると、其処でキメ台詞(しかも悪役の言うような台詞)を言うんだったっけ? よし、真似てみようじゃねぇか。
 オレはぎゅっと拳を握り締めると、顔を守るように持ち上げてその腕を受け止めた。
「誰がテメェの話なんか聞くか、黙れ」
そう太陽みたいなキメ台詞(でもないか)を言ってから、兄貴の腕を振り払って部屋に向かって走って戻った。
 ドアをピシャッっと閉めると鍵を掛けて、オレはピアノの前に座った。親父が引っ張ったせいでぐしゃぐしゃになった大嫌いな巻き毛を手櫛で整えてから、ドアを睨みつけた。兄貴が何か言っている声が聞こえるけど、オレはそんなの聞きたくなくて耳を塞いだ。

   しばらくするとサムからメールがあって、何があったのとしつこく訊かれた。答える気はなかったけど、でもいつの間にかあった事を全部サムに吐き出して、意味もなく泣いていた。情けないからやめろよと言ってはみるけど止められない。
 どれくらい泣いていたのかは分からないけど、気がつくと兄貴が窓から部屋に入ってきていた。まるで泥棒だぞ、その侵入方法。しかも片手にはお盆を持っている。泥棒だってそんな間抜けな侵入方法を使わねぇだろ?
「輝、大丈夫か?」
 兄貴がそう言って、オレの隣りに座った。お盆をピアノの上に置いて、それから勉強机の椅子を引っ張ってくると、オレの隣りに持ってきて其処へ座った。
「晩御飯、一緒に食べよう」
 兄貴は笑って、オレの手にパンを押し付けた。
 オレが好きなピザパンだ。それだけじゃない、明太フランスもある。兄貴はあんぱんとカレーパンを持っている。それと半分に切ってあるアップルパイ。
「ほら、食え」
「おう」
 オレは兄貴のカレーパンを横取りして笑った。

 その夜、オレは兄貴に起こされて、パジャマのまま車に押し込まれた。後ろの席に寝ると兄貴が毛布を掛けて枕を頭の下に敷いてくれて、すぐにうとうとしだした。
「静かにしてろよ、鞄を取ってくるから」
その声を聞いてから、オレは訳も分からないまま車の中に置いて行かれた。ケータイを部屋に忘れたと思って起き上がると、胸のポケットから落っこちた。流石兄貴、気が利く。
 兄貴はすぐに戻ってきた。
「行こうか」
そう言って、運転席に座ると静かにゆっくりと家を出た。小さい音で昼間のCDが流れているから、昼間と同じ車らしい。兄貴の鞄が足の上に乗っかっているらしく重い。
「兄貴、何処行くんだよ」
「秘密、そのうち分かるから寝てろ」
 兄貴はそれっきり何も言わなかった。オレもなぜか眠くて仕方がなかったから、そのまま眠った。鞄を座席の下に降ろしてからだけど。

 目が覚めると、いきなり兄貴に揺すられた。頭がはっきりしていなかったし訳が分からないしで、目が完全に覚めた。
「輝、大丈夫か?」

「はあ?」
 兄貴はめちゃくちゃ心配そうな顔をして、オレの顔を真っ直ぐ見つめている。今にも泣き出しそうな顔で、オレはますます訳が分からなくなった。オレ、死にかけたのか?
「薬の分量を間違えたのかなぁ?」
「違うと思うよ、人によっては効かなかったり効いたりするから」
 泉兄がそう言ってオレの腕をとって、手首に指を当てた。それから腕時計を見て、秒針とにらめっこして
「脈も正常だし」
と笑った。眼鏡を中指で押し上げて、にっこりとオレに笑った。
「おはよう、輝くん」
「おはよう」
 サムが笑ってオレの背中を叩いた。
「おはよ、太陽の所に行ってあげたら?」
「え?」
「その前にパジャマは着替えた方がいいと思うけどね」
 零がくすくすと笑って、部屋を出て行った。兄貴と泉兄は零の後に続いて部屋を出て行った。サムは黙ってオレの隣りに座って笑った。
「輝、寝癖ついてるよ」
 オレはサムに言われて髪を手櫛で梳いて、枕元に置かれていた白い十字架の模様のポロシャツとGパンに着替えた。まだ体が重い。頭がぼうっとしている。もしかして薬でも盛られたのか、オレ。
 パジャマをちゃんと畳んでいると、幸せそうな顔をした太陽が部屋に入ってきた。
 太陽は真っ赤なミニスカートのドレスを着ていて、髪を黒いリボンでポニーテールに結っていた。靴はいつもの茶色のローファーでニーハイを履いている。赤いワンピースみたいなのの上に黒い赤いリボンのコルセットをつけている。スカートの下からひらひらと黒のレースが出ていた。これって、一体誰の趣味だ? サムのおばさんはいわゆるロリータの服とかだろ? 零はこんな派手なフリフリドレスを着ないし。
「輝、似合う?」
 太陽はくるっと回って、オレの前に座った。昨日までとは打って変わって凄く元気そうだった。そんな太陽を見ているとほっとした。よかった。元気になったんだと、そう思って。
「何だよ、それ」
「普段着☆」
 太陽はそう言ってにっこりと笑うと、ベッドにばさっと倒れこんで、狂ったように笑い出した。サムがびっくりした顔で太陽をじっと見つめている。オレは太陽の馬鹿みたいな姿を見ていると面白くて、一緒に笑った。
 サムが突然笑い出した。腹を抱えて凄く面白そうに、物凄い勢いで笑い出した。ベッドをバシバシ叩いて、太陽の顔をまた見ては笑った。
 不思議そうな顔をして部屋に入ってきた零が、サムの変な顔を見て笑った。オレは深呼吸をしてまだ笑っている太陽の背中を叩いて、サムと零を見た。
「もう、どうしたんですか?」
「太陽と輝がっ……」
 サムはまだ笑ったままで、零は首をかしげている。太陽が少し顔をあげて
「おいおい、笑いすぎだろ」
と言うと、サムは苦しそうに頷いて、何とか起き上がった。
「ごめんごめん、でも輝と太陽が元気になったみたいでよかった」
「桜野さんは元気じゃなくちゃ面白くないし」
 すると太陽は零の背中に抱きついて、無邪気に笑うと
「いい加減、桜野さんて呼ぶのはやめろよ」
と笑って言った。
「そうそう、さん付けはやめにしようぜ」
オレも零と太陽の肩を抱いて笑った。
「それはいいけど、零を抱いてもいいのは俺だけなんだからね」
サムがそう言ってオレと太陽の腕を振り払った。それから幸せそうに笑って零をぎゅっと抱きしめた。
「え? 何で」
 超鈍感な太陽はそう言ってサムの顔をじっと覗き込んだ。もしかして、まだ気がついていなかったのか? サムと零が付き合っているって。はっきり二人の口から聞いた訳じゃないけど、オレでも気がついたぞ、おいおい。
「太陽、気がついていなかったんですか?」
「え?」
「私とサムさん、付き合ってるんですよ?」
「ええ?!」
 素っ頓狂な声を上げて太陽はオレの顔を見た。金色の髪がさらさらと揺れて、黒いリボンがするっと解けた。オレの手の上にそれはゆっくりと落ちた。
「輝は知ってたのか?」
「うんまあ、感づいていたけど」
 太陽はびっくりした顔でサムを見た。
 当の本人は少しふくれっつらで、零の隣りに座ったまま背中を向けている。何に膨れているんだか。
「いつから?」
「エジプトに行った時からですけど」
 零がにこっと笑って、サムの肩を叩く。サムは怒ったまま、零から顔を背けて
「ふん」
と小さく呟いた。怒ってる?!
「輝、何かしました?」
「何にもしてないけど」
 零は少し不思議そうな顔をして、サムの顔をじっと見つめた。サムは顔を背けて、不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「どうしたんですか? サムさん」
「輝と太陽は呼び捨てで、俺はさん付け? 彼氏なのに?」
そう言って、サムは零の顔をじっと見つめ返す。青い目がきらっと怪しく輝いて、零は少し意地悪く笑った。
「サムさんはなんて呼んでほしいんですか?」
「サムって呼び捨てがいいなぁ」
それから立ち上がって、太陽の肩を抱くと
「零がいつまでもそんなんだったら、浮気しちゃうかもよ」
と子供みたいな顔で呟いた。
 太陽は笑って、サムの腕をひねり上げると
「残念だけど、私はあなたみたいな二股男はお呼びじゃないのよ」
と零の真似をして言い、それからお姫様みたいにドレスを持ち上げて軽く頭を下げた。
 オレは思わず噴出して、
「らしくねぇ〜!!!」 と大笑いした。
 太陽はオレの隣りに戻ってきた。赤いドレスが揺れて、金色の髪がオレを掠めた。さっきまで結っていたのに、跡が全くついていない。
「どうどう、零に似てた?」
「全然似てねぇ〜!!!」
 するとサムがオレの隣りに座って
「いいよいいよ、どうせ俺は勉強だけが取り柄の二股男だもん」
と愚痴を呟き始めた。どうやらマジで傷ついてしまったらしい。いつもの紳士は何処かに吹っ飛んじまってる。これには流石の太陽も黙った。
 零はそんなサムの前にしゃがむと、にこっと笑って
「あら、奇遇ですね」
とサムの髪を撫でた。真っ赤な髪が零の指の間をすり抜ける。零はそれを楽しそうにしながら、にこっと笑った。
 サムが大きな青い目を真っ直ぐ零に向ける。何処か悲しそうな目をしていて、オレはどうしていいか分からないまま、其処でサムの顔をじっと見つめていた。
「私はそんな貴方が好きなんですよ」
 そう言って零は笑うと、躊躇いもせずにサムの口唇にキスをした。
 どうしていいか分からなくて、オレと太陽はとりあえず背中を向ける。
「輝、部屋出ようぜ」
「おう」
 そしてオレと太陽はこそこそと部屋を出た。
「あれ? サムくんは?」
 サタナエルの声が聞こえて、オレは辺りを見回した。
 すぐ近くに立っていた。太陽の隣りで、カリブ海に突き落とした時と同じ白いカッターシャツにネクタイ、頭にはシルクハットの仮装パーティみたいなカッコだった。今日は茶色のサングラスを掛けていて、それの下で黒い瞳が真っ直ぐオレ達を見つめていた。
「何の用だ?」
「ちょっとサムくんに話があったんだけど、まあいいや。伝言を頼めるかな?」
「はあ?」
「競争しようって伝えてくれる? ”トロイの遺産は最高の地で眠る”って謎を解いて、先に宝を見つけた方が勝ちって」
 ヤツはにっこりと笑うと、そのままきびすを返してホテルの廊下を引き返していった。訳が分からなかったけど、どうやらケンカを売りに来た訳ではないらしい。また謎が解けないとかそんな事だろう。
「”トロイの遺産は最高の地で眠る”かぁ……」
「分かるのか? 太陽」
「ちっとも」
 太陽は笑うと、隣りの部屋のドアに手を掛けた。
 其処が誰の部屋かは、オレには分からないけど、どうやら兄貴の部屋ではないらしい。兄貴だったら部屋のドアには必ず鍵を掛ける筈だから。
 それにしても、太陽は何を考えているのかがよく分からない。
「泉兄〜!」
 太陽は嬉しそうに笑って、ドアを開けた。
 泉兄が窓際で分厚い本を読んでいた。表紙の文字からして日本語でないのは確かだ。サム以外に外国語の本をそのまま読んでいる人がいたんだなぁと、まず感心した。
「太陽、どうしたの?」
 泉兄は本にしおりをはさんで、床に置いた。それから太陽を抱き上げて膝に乗せた。おい、何やってるんだ泉兄。太陽から離れろよ。
っつうか、泉兄は太陽のそのドレス、なんとも思わないのか?
「”トロイの遺産は最高の地で眠る”ってどういう意味か分かる?」
「ああ、イリオスの事じゃないかな?」
「イリオス?」
「そう、トロイア戦争で陥落した場所だなんだけどね、あんまり有名じゃないけど世界遺産なんだよ」
 泉兄はオレを手招きしてにこっと笑うと
「空から聞いたよ、無茶ばっかりするんだって?」
と楽しそうにオレに言った。
「オレじゃなくて太陽だけど」
「空は輝くんの方が無鉄砲だって言ってたよ」
「はあ?」
「太陽は無茶しても平気なくらい強いけど、輝くんはそんな事もないからって」
 泉兄は近くの椅子に座るように言ってから、太陽の髪を撫でて笑った。嬉しそうに笑った太陽の顔を覗き込んで、泉兄はにこっと優しく笑った。
「あんまり無茶して空に心配掛けちゃ駄目だからね」
「うん」
 あの兄貴がオレの事なんか心配する筈ないじゃん。自分勝手で、小児科医になれさえすればそれでいいんだから。意味分からんねぇ。
「太陽もだよ、無茶しちゃ駄目だからね」
「おう」
 太陽はオレと泉兄の顔を見て満足そうにまた笑った。
 泉兄はオレがまだ持っていた黒いリボンをかせと手を出すと、太陽の髪を手櫛で軽く梳いてリボンでぎゅっと縛った。それから可愛らしくリボン結びにすると
「よし、元通り♪」
とにこっと満面の笑みを浮かべた。

   晩飯時、俺達はせっかくだから町でおいしいものを食べようという話になって、兄貴と泉兄に連れられて太陽と一緒に歩いていた。仲良く手を繋いで歩く零とサムは後ろをゆっくりとついて来る。そんな二人をちらちらと見ながら、太陽はオレの隣りを歩いている。あえて見ない様にしているオレの気も知らないで、サムと零は楽しそうだ。
 兄貴と泉兄は何がおいしいのかについて延々と語り合っている。
「輝」
 太陽が突然オレの腕を引っ張った。ちょっと心配そうな顔をしている所から見て、何かあったんだろう。
「何だよ?」
「オレ達、つけられてるぜ」
「誰に?」
「しらねぇ男だ、サムくらいの背丈で帽子を被ってるから顔が分からない」
 サムはポケットに手を入れて、手鏡で後ろを確認する。髪を少し整えて、太陽の腕を引くと
「黒髪の、シルクハットだよね?」
と小さい声で尋ねた。零が心配そうな顔をしたから、オレは笑って零に言った。
「大丈夫だって、こんな街中で銃を撃ってきたりしないから」
「輝の言う事は信用できません」
「何だよそれ」
 サムが笑って零を抱き寄せると
「大丈夫、俺がついてるもん」
と優しい口調で言った。この言葉の方が信用できねぇだろと思わずつっこみたくなったけど、サムが怒りそうだから言わなかった。
 兄貴達はまだ気がついていない。
 サムが兄貴の肩を叩いてにっこりと笑った。
「俺達、行かなくちゃいけなくなったから、空兄と泉兄は二人でいてよ。何かあったら連絡して」
それからオレと太陽の腕を引っ張って、零と一緒に町を直進していく。しかも無言で、話しかけるなって顔をしていた。ちょっと怯えた目で太陽が零の背中を見つめていたけど、何も言わないから何も言わなかった。
 途中、駄々をこねた太陽の意見を汲んで、トルコアイスを買った。其処のおっちゃん、めちゃくちゃ面白い人だった。オレは一人で笑いこけてたんだけど、サムと零は食べながら辺りの様子に輝を使っていた。
「何処行くんだよ?」
「トロイ遺跡だよ、”トロイの遺産は最高の地で眠る”でしょ?」
 そう言ってサムはにこっと優しく微笑むと、近くのトルコ語(らしい)を話しているおじさんに話しかけた。どうやらトルコ語らしい。サムって、マジで凄い。トルコ語もしゃべれるのか。
「三人とも、ついてきて」
サムはそう言うと、おじさんの車の方に向かって歩き出した。
 よく分からないけど、どうやらタクシーらしい。仲良く楽しそうに笑っておじさんと話をしているサムをうっとりと見つめている零が、幸せそうに笑いながらサムの隣りに座った。その隣りに座った太陽がオレの前で一人大騒ぎをしている。景色が綺麗だからはしゃいでいるだけみたいだったから、オレはあんまり気にしなかった。

 ついた場所はトロイ遺跡だった。看板にそう英語で書いてあって、それはオレでも読めた。サムはタクシーのおじさんとまた何かを楽しそうに話している。どうやらこの遺跡の事について話しているみたいだけど、何を言っているのかはオレには分からない。
 大きな木馬が立っていて、月明かりに映えて凄く綺麗だった。実際はかなり安っぽいものだとサムが隣りで説明してくれた。どうやらタクシーのおじさんが言っている事を訳してくれたみたいだ。
「なあなあ、あれって登っていいの?」
「いいって」
 サムは笑って太陽の背中を叩いた。
 それからおじさんにお礼を言って手を振ると、零の手を引いて
「行こう」
と笑った。入り口で入場料をまとめて払ってから、サムは太陽の背中を押して
「行ってらっしゃい」
と優しく言った。

 嬉しそうに笑ってはしゃぐ太陽に腕を引っ張られて、オレは木馬に登った。幸い、観光客はめちゃくちゃ少なかったから楽に登る事が出来た。中は正直かなりしょぼい。よく大きい公園とかにある木製の遊具に似ている。そうだ、竹取公園の木製遊具にそっくりだ。家から結構近いから何度か行った事がある。
 サムと零が仲良く後から上ってきて、地図を広げると
「第二市の城壁は一番奥にあるみたいだから急がなくちゃ」
と呟いて、太陽の真っ赤なドレスを掴んで階段を降りた。まだ見てるのにと言って、サムの腕を振り払おうと暴れる太陽を押して零がその後ろを降りていく。下に降りると、サムはかなりの勢いで遺跡の中を突っ切っていった。
 オレはその後ろを追いかけながら、もう少しほかのものも見て行ったらいいのにと思っていた。どうやら零も同じ事を考えていたらしく、時々立ち止まって遺跡をじっと眺めて写真を撮っていく。
「それ、どうするんだよ」
「あとでじっくり眺めるんです」
 零はそう言ってまたシャッターを切った。なかなか楽しそうに写真を撮っている。月明かりに照らされた辺りの景色はかなり綺麗で、写真の被写体にちょうどよかった。何より、遺跡が好きだからとレジャーハンターをやってるんだし、見ているだけで幸せだ。
 オレは零と一緒に写真を撮りながら少し急いでサムと太陽を追いかけた。また太陽の髪のリボンが解けそうになっていたから、オレはそのリボンを解いて、零に預けておいた。
 しばらく歩いて、ようやく辿り着いた不思議な通路の前でサムは立ち止まった。地図をじっと見つめて、遺跡の周りをぐるっと一周歩いた。
 特にこれといって面白いものはない。
 零が楽しそうに遺跡の写真を撮り、ついでにサムの真剣な横顔の写真も撮って笑った。零、もしかしてカメラで撮りたかったのって遺跡じゃなくてサム?
 太陽はひょこひょこと歩きながら高い石垣の上によじ登ると
「うおぉ〜」
と一人歓声を上げた。きらきらした目で遺跡の景色を見ている。そんなに綺麗なのか、その景色。
 オレはそんな太陽の隣りに行き、上りたそうな顔の零のカメラを太陽に渡して零を石垣の上に引っ張り上げた。結構高いから、零は少し苦労したみたいだったけど、何とか上れた。
 零はありがとうと笑うと、カメラを受け取って辺りを見回した。
 オレも顔をあげて、太陽が楽しそうに見ている景色に目を向けた。
 景色は最高だった。月明かりに照らされた何もない遺跡の中は不思議な雰囲気に包まれていて、これが本当の遺跡なんだってそう思った。看板もあんまりない、本当に見つけた当時のままって感じの遺跡で凄く綺麗だった。あちらこちらで見られる雑草の緑がまた遺跡に栄えていた。
 よく考えたらこの遺跡は4500年も前の国の後なんだよな。此処に、昔はいろんな人達が住んでいたんだよな。それなのに残っている石垣は4500年も此処の景色を見てきたんだな。なんだか歴史を感じるよ。
「綺麗だな」
「おう」
 太陽は笑ってオレの隣りでニコニコと笑っていた。優しい笑顔が嬉しくて、オレも一緒に笑っていた。それから、人がいないのをいい事に二人でカーマは気まぐれを歌って、空を見上げて笑った。呆れた顔の零は笑っていた。
「さぁ〜むくん」
 サタナエルの声だった。珍しくつれて歩いているのがムキムキマッチョのオッサンじゃない。サムと同じくらい背の高い、オレ達をつけていた男だ。帽子で顔は分からなかったけど、どうやら日本人ではないらしい。いかにも白人って感じの肌の色だった。
 零が平然とした顔ですぐ下にいるサタナエルを見下ろして
「また出ましたね」
と冷たく一言呟いた。
 サタナエルはいつもの太陽を笑えないような派手なシャツにチェーンがジャラジャラ下がった黒のズボンのカッコだった。ポケットから小さなハンカチを出して太陽の目の前で一回大きく振って見せると、今度はその下に手を入れて、花束を出して笑った。
「はい、プレゼント」
 それを零の腕に押し付けて、サムの方を見た。
 太陽は結構な高さがある石垣から飛び降りて、サムとサタナエルの間に割り込んだ。さらさらと金色の髪が靡き、赤いドレスがふわっと捲れた。月明かりしかないから、視界はあんまりよくないのに、よく飛び降りるよなと思わず感心してしまった。高所恐怖症はどうした?
「太陽ちゃん、今日は何処かで舞踏会でもあったの?」
「オレの普段着だよ、悪ぃか?」
 太陽はそうはっきり言うと、サムをちらっと見た。
 顔を上げて、赤い手帳をぎゅっと握り締めている。目は真っ直ぐ、サタナエルの後ろの男に向けられている。何かを書き込んでいたらしく、片手には赤い万年筆を持っているけど、それを持っている事さえ忘れているような顔をしていた。昔から何かを書き込む時にはそれを使っていて見慣れているから気にはしない。でも、サムの様子がいつもと少し違うような気がした。
「サムくん、次は何?」
「”戦争の記録はトロイの木馬とともに眠る”」
 サムは太陽の腕を引っ張って
「太陽、此処で暴れちゃマズい、世界遺産だよ」
とささやいて、オレと零を見た。零は一人じゃ降りられそうにないから(っていうのは零がハイヒールだからなんだけど)、オレがとりあえず降りて零に手を貸した方がいいらしい。
 オレは太陽が飛び降りた辺りに向かってジャンプしたけど、でっかい石の上に着地しちまって勢いで脚を挫いた。そんなに酷くはなさそうだけど、これじゃあ、いつもみたいにボクシングは出来ない。ズキンズキンと、脚に響く。
 すると、サタナエルは片手をあげて、後ろの男に何かを命令した。その瞬間、オレに真っ直ぐ銃が向けられた。この姿勢何処かで見た事がある。でも何処でだったっけ? 思い出せない。
「サムくん、答えは何処か分かる?」
「分かる筈ないじゃん、トロイは俺の専門分野じゃないもん」
「じゃあ誰の専門分野?」
「……オスカーだよ、だからちゃんと調べてみなくちゃ分からない」
 サムは悲しそうな顔をして、サタナエルの顔をじっと見つめた。かざりっけのない無地のシャツとその下に着ている灰色のタンクトップが夜風に大きく揺れた。大きな青い目は恐れもせずに強い視線をサタナエルに向けたまま。サムらしくない、顔だった。
「そりゃあどうも、いい事を聞いちゃったなぁ」
 サタナエルは笑うとオレに銃を向けている男の方に歩いていって、
「一旦帰ろう」
と優しく行って、そのまま離れた。男は銃をズボンのベルトに挟むと、ズボンのポケットに手を入れてサタナエルと並んで歩いて行った。
 なんだか変な感じがする。知らない筈の男なのに、なぜかその人の癖をオレはよく分かっている。それが誰なのかも思い出せないのに、銃を構える姿勢やポケットに突っ込んだ手の意味も分かっている。
 サムが不思議そうな顔をして、男の背中をじっと真っ直ぐ見つめていた。遠回りして降りてきた零が背中を叩いているのにも気がつかない。じっと見つめて
「そんな訳ない」
とサムは小さく呟いた。

 ホテルに向かってかなりの距離を歩く事になったけど、帰りに売っていたスィミットっていうゴマつきのドーナッツを四人で食べながら帰った。結構楽しかったから、そんなに遠くは感じなかった。時々、トルコ人のおっちゃん達に声を掛けて、道があっているのかを確認しながら、食べ歩きをして帰った。
 ホテルに帰ると兄貴と泉兄が美味しそうな肉(あとでケバブっていうんだと知った)を食べていて、オレ達に向かって楽しそうに手を振った。
「おう、輝〜♪」
 オレは兄貴が呼んでいるから仕方がなく近寄っていって、兄貴をじっと見つめた。兄貴は真っ直ぐ手を伸ばして、食べかけのドーナッツを横取りして
「あ、うまい」
と嬉しそうに笑った。
「おい、兄貴! それはオレの!」
「カレーパンの恨みだ」
「いつの話だよ!!」
 泉兄は笑って、オレの肩を叩いた。
「それじゃどうせ少ないんでしょ? ルームサービスでも頼みなよ」
「じゃあ、オレはこのページ全部〜♪」
 サムがぎょっとした顔で太陽を見て、ポケットに手を入れた。
「太陽、輝、二人で外に食べに行ってきたら?」
「え?」
 サムはニコニコしながら、トルコリラの紙幣を出してオレに押し付けた。お金の事は全部サム任せ(だからスカイブルーのトレジャーハンターでの儲けは全部サムが管理している)で、初めてその国の紙幣を見た気がする。
「俺は疲れちゃったし、ついていく元気がないから」
「帰りに何か買ってきて下さいよ」
「行こうぜ、輝」
 太陽は結構乗り気だったから、オレは太陽と一緒にホテルを出て町に出た。少し歩いて町のバザールに向かう途中、太陽が突然オレに向かって言った。
「なあ、サタナエルの後ろにいた男の事なんだけどさ」
少し躊躇いながら、太陽はオレを見上げた。
「サムに似てなかった?」
「え?」
 そうだ。オレがあの時感じていた、変な感じはそれだったんだ。銃を構えた時の姿勢、ポケットに手を入れた時の雰囲気、皆サムに似ている。……いや、サムじゃない。あの雰囲気はサムじゃなくて、オスカーに似ていたんだ。
「背とか、雰囲気とか、サムにそっくりで気持ちが悪かった」
「オレはサムっていうよりオスカーって感じがしたけどなぁ」
 オレはそう言って笑った。道端で売っていたドネル・サンドイッチを四つ買って、一つを太陽に渡した。一つは自分が食べる事にして、またバザールの中を行く。
「オスカー?」
「前に話したサムの双子の弟だよ、サムよりもずっと落ち着いているところとか、そっくりだった」
 太陽は幸せそうにサンドイッチにかぶりついて、
「オレは会った事がないから分からないけど、そいつが死んだのって確かなんだろ?」
とオレに向かって尋ねる。オレは黙って頷いた。それからサンドイッチを食べる。お、なかなか美味い。
「おう、オレは目の前でサムがとどめを刺すのを見ていたんだぜ」
「もしかして、サタナエルの嫌がらせか?」
「ああ、サムを揺すろうって?」
「その為にそっくりさんを用意して、癖とか全てを教え込んだとか」
 確かにありえない話じゃないよな。あの野郎の事だ、やりかねない。”HELL”にとっちゃ、スカイブルーのトレジャーハンターのメンバーは全員邪魔なんだから。特にサムや太陽は。オレや零は役に立たないからあんまり目を向けられない。
 オレの専門分野って洋楽と楽器、あとレオナルド・ダ・ヴィンチの絵画くらいだ。それも太陽みたいにマニアックではないし、そこそこ詳しいって程度だ。
 サムは外国がペラペラで、いろんな国の事をよく知っている。頭もいいし、射撃の腕もある。正直、トレジャーハンターにめちゃくちゃ向いてるタイプだからな。
 太陽はなぜかエジプトと宗教の事に詳しくてヒエログリフが読めるっていう、めちゃくちゃ変な特技がある。おまけに字が綺麗(どうやら習字教室に通っていたらしい)で、ケンカが超強い。
 そんな二人は”HELL"にしてみりゃ邪魔者以外のなんでもない。何とか味方につけたいみたいだけど、二人は絶対に味方につかないから嫌がらせをはじめた。太陽の家族が殺されたのだってそうだ。太陽には言わなかったけど、犯人はおそらく”HELL"の連中なんだ。単独犯ではあったけど、サタナエルともう一人別の男の声がサムのパソコンのデータに残っていた。
「輝、サムは大丈夫かな?」
「え?」
「サムはそんじょそこらの鉱物よりも硬いダイアモンドだって事くらいは分かるけどさ、ダイアモンドは欠けやすいんだぜ。ちょっと何言われたらひびが入って、簡単に割れちまうんじゃないかって心配なんだよ」
 太陽はそう言って、パンパンと手を叩いた。いつの間にかサンドイッチは何処かに消えている。もしかして、もう食べた?
「サムはそんじょそこらのダイアモンドじゃねぇぞ、持っている人を呪い殺すような魔法のダイアモンドだから大丈夫!」
 オレはそう言って、サンドイッチを口に放り込み、サムと零の分が入ったビニール袋を太陽に押し付け、近くで売っていたムール貝の串揚げを二本買って、一本を太陽に渡した。
「そうか?」
「そうだって」
 お、この貝も美味い。帰りにもう一回アイスを買って帰ろう。
「輝、今度はあの店に入ろうぜ!」
 太陽がそう言って、いかにも飯屋って感じの建物に向かっていく。
「ちょっと待て、まだ食うのか?」
「当然だろ? トルコ料理は制覇するぜ!!」
そして太陽はオレの腕を引っ張って飯屋に入った。絶対食えねぇ
と思いつつ、オレはウズガラ・キョフテ(っていうらしい)って書いているミニハンバーグとご飯のセットを強制的に頼まれて、結局殆ど手付かずのまま、太陽の胃袋に収まった。ちょっと頑張って、一つは食べた。
 太陽、ミニハンバーグを七つとご飯一杯野菜の炒め物を山盛り食ったんだぜ? 信じられなかった。さっきのサンドイッチ、相当な量だったと思うんだけど。その前にドーナッツも二つ食べてたのに。
「輝、お前小食だなぁ」
「いや、太陽がおかしいだけだと思うぞ」
「おかしくねぇって」
 そう言って笑った太陽は隣りのテーブルで食べているのを指差して
「おっちゃぁ〜ん、あれ頂戴」
と思いっきり日本語で話しかけた。
 おっちゃんはびっくりした顔で持ってきてくれたけど、絶対太陽の胃袋はブラックホールだと思ったに違いない。周りの客も驚いてたからな。
「輝も食えよ」
「いらねぇ」
 オレは幸せそうな顔で食べ続けている太陽を黙ってみながら、こんなに食って、金は足りんのか心配になってきた。サムにもらった札の価値がイマイチ分からなかったけど、結構な金額なのは分かった。
 すると近くの席に座っていたアメリカ人が近寄ってきて、太陽に向かって英語で話しかけた。その人はおじさんて年で、結構デブの部類に入っていた。浅黒い肌で目は青、髪は黒だった。どうやら大食い勝負をしようと言っているらしい。
 太陽は笑って、おっちゃんに向かって
「おっちゃんが負けたらおごりだせ?」
と言って、店のメニューを端から端まで注文した。幸せそうな顔でメニューを眺めていた太陽は笑っていた。
 おっちゃんが丸い目をしているので、オレはおっちゃんに英語で
「先に腹いっぱいになったら負けだって、負けたらおごれって言ってる」
と話しかけた。おっちゃんは分かってくれたらしく頷いてくれた。ああ、よかった。何とか通じたとほっとした。
 店やバザールにいた人達がオレ達の前に集まってきて、めっちゃくちゃ美味しそうに食べる太陽の顔を黙って眺めている。近くの椅子で賭けまで始まった。
 太陽は幸せそうな顔で店のメニュー一周目を食べてしまった。それもたったの三十分。言っておくが、この店のメニューはかなり多い。はっきり言って、目の前に並んでいる皿の量が信じられない。
 おっちゃんは気分悪そうな顔をしながら何とか一周目を完食。太陽はもう二周目に入っていた。なのに相変わらず幸せそうだ。
「おっちゃ〜ん、もう終わり?」
 太陽は笑って、また美味しそうな顔で肉を口に放り込んだ。それからコップを掴んで水を飲み干すと、にっこりとした顔で笑った。
「おお、オレこんなに食ったんだぁ〜☆」
こいつ、絶対お化けだ。今の、一体何処に入ったんだよ。
 おっちゃんは呆れた顔をしながら太陽のお皿を眺めて
「負けた」
と英語で呟いた。がっくりした顔で、肩を落として俯いている。悔し泣きまで始めてしまった。何かを言っているけど、よく分からない。多分
「一度も負けた事、なかったのに〜」
って感じの言葉だろう。
「え?」
 太陽が不思議そうな顔をしてオレを見た。オレは太陽の肩を笑って叩くと
「負けたってさ」
と教えてやった。太陽はガッツポーズして
「やったぁ〜!!!!」
と雄たけびを上げた。
 それから、約束通りのおごりでオレ達は帰った。太陽とオレは二人で並んで、夜も更けてきたバザールを行く。人はだんだん少なくなってきた。早く帰らないとサム達が心配している。
 オレはケータイを見た。
 知らないうちにサムからメールが来ている。太陽と一緒に恐る恐る見てみると
「何してるの? 遅いよ!!」
とめちゃくちゃ短いメールが来ていた。ほっとして、今帰るとメールをいれてから、エキメッキっていうパンを買って帰った。おじさん達が日本語で
「世界一美味しい」
って言っていたから。
 オレは食べる気がなかったから、三つだけ買った。
 帰ると、サムと零が少し怒った顔でソファーに座っていた。晩飯を待っていたのにって顔だ。そりゃそうだ、ホテルを出てからもう二時間も経っている。
「悪ぃ悪ぃ、太陽が食べまくるから」
「え?」
 サムがぎょっとした顔でオレを見た。
「足りたの?」
「うん」
「俺、5000円分くらいしか渡さなかったのに」
「食べ物屋であったおっちゃんと大食い勝負して勝ったからおごり☆」
 太陽はビニール袋からサンドイッチとパンを出して、二人に渡
した。太陽はもう一つのパンを半分に割って、オレに差し出した。正直、あんまりほしくなかったから、それをまた半分に割って、片方を太陽に返した。
「太陽、店の商品二周も食ったんだぞ」
「はあ?」
 オレはサムの隣りに座った。零が反対側の隣りで笑っている。相当面白がっているらしい、腹を抱えて笑っている。零は太陽と一緒に暮らしてるんだし、太陽がどんな大食いなのか分かってるんだろう。
「そんなに商品もなかったじゃん」
「あのおっちゃん、一周しか食えなかっただろ?」
「修行が足りねぇんだよ」
 太陽は笑って、零の隣りに座った。サムが太陽を抱き上げて、オレの膝に乗せると零を抱きしめて
「ねぇねぇ、零。太陽はいつもどれくらい食べるの?」
と尋ねる。太陽は笑ってオレの隣りに座りなおした。
「少ないですよ、ご飯を一杯とおかずだけです」
「え?」
「でもバイキングとかに行ったら、信じられない量を食べるんですよ」
 零はサンドイッチを食べると手を叩いて、パンを太陽に押し付けた。
「もうおなか一杯です」
と笑った。
「このパン美味しいぜ、食べろよぉ〜」
「じゃあ一口だけ」
 例はそう言って少しちぎって食べると、残りを太陽に押し付けた。太陽は笑ってそれを食べてしまった。やっぱり、太陽の胃袋はブラックホールだ。今のは一体何処に消えた?
「ねぇ太陽、大食い勝負してきたんじゃなかったの?」
「したけど?」
 サムは丸い目をして太陽をじっと見つめていた。口をあんぐりと開けたまま、固まっている。サムの反応が面白いけど、吐きそうなくらい食っちまったから気分が悪い。オレ、一応ボクシングをやっているから体重管理とかの問題上、しょっちゅうダイエットしなくちゃいけないからいつもはあんまり食べない。ある一定の体重を維持しないと体が思うように動かなくなったりするから。
 流石にもう驚く事もなくなってしまったから、オレは呆れている事しか出来なかった。太陽って、こういうヤツだったんだなくらいなもんだろ?
 太陽は立ち上がると
「じゃあお風呂行って来るぜぇ〜!!」
と笑って部屋をでていってしまった。
 零は笑って立ち上がるとオレの前にしゃがんだ。黒い髪は解いていて、大きく揺れた。太陽も少し前まではこんな色の髪をしていたんだったっけ?
「輝、太陽の事は好きですか?」
「何回聞いたら気が済むんだよ、オレは親友だって思ってるだけだぜ」
「ねぇ零、どうして俺だけさん付けなんだよぉ〜!!」
 サムが零の腕を引っ張って喚いているけど、零はそれを完全に無視している。もう何度か同じような事をしたらしい。零は慣れた様子でサムの頭をぽんぽんと叩いただけだ。
「じゃあ、お兄様が太陽を好きでもなんとも思わないんですか?」
「泉兄が? 勝手にしたらいいじゃん」
 ちょっと腹が立つけど、太陽がいいんだったらいいんじゃねぇの? オレは人を好きになった事がないから分かんねぇけど、好きなら一緒にいたほうが幸せなんだろ? だったら一緒にいたらいいじゃねぇか。それだけじゃねぇのかよ?
「輝は太陽と抱き合ったり出来なくなってもいいんですか?」
 それは嫌だ。今でさえ、サムが遠くて寂しいのに、太陽と一緒にいられなくなったら嫌だ。そうだ、泉兄といるのをオレは見たくない。あの時も思ったように、きっとムカつく筈だ。
「嫌なんでしょう、認めたらどうなんですか?」
「そりゃ嫌だけど、だったらどうなんだよ」
「それが好きって事なんじゃないんですか?」
 するとサムがオレの顔をじっと覗き込んだ。
「太陽といる時、楽しい?」
「そりゃ、楽しいけど」

「ずっと一緒にいたい?」
「うん、まぁ」
 サムに訊かれると答えないといけないような気がする。どうしてなんだろう。話したくない事でも答えてしまう。うう、サムにだけは取調べとか受けたくないな。本当はやっていなくても眼力でに負けて
「やりました」
とか言いそう。
 サムはオレの隣りでニコニコしながら楽しそうに笑っていた。優しい視線だけど、なんだか不思議と落ち着かない。銃口を向けられている気分だ。
「輝は鈍いね、友達だったらどうしていつも太陽の事を抱きしめるの?」
「え?」
「虐められたり、つらい事があって傷ついた時、いつだって輝は太陽の事を抱きしめるよね? どうして?」
 答えられなかった。どうして抱きしめるのかなんて、考えた事もなかった。いつだって、太陽が泣いているのを見ると放っておけなくて、オレに出来る事はそうする事だけだから抱きしめるけど……。
「放っておけなかったんでしょ?」
 オレは頷いた。
「それが好きって事なんじゃないの?」
 好き? 太陽なんかが? 
「ゆっくり自分に聞いてみたら?」
 サムは笑って零と一緒に部屋を出て行ってしまった。
 オレは一人になった。
 部屋の中はしんと静まり返って、何も聞こえない。サムが電気を消していったから部屋の中は真っ暗で、窓から差し込む月明かりだけが明かりだった。
 太陽の事が好き? 確かに抱きしめた時、少しだけ嬉しかった。柔らかい太陽の髪と暖かい体温を凄く近くに感じた。それがなぜか嬉しかった。でもそれがどうして好きなんだよ? オレはそれ以上の事は望んでないのに?
 分からない。考えれば考えるほど、もやもやした気持ちがたまっていく。気持ちが悪いのに、それがなぜなのか分からない。どうしたら楽になるのかも分からない。
 サムの笑い声がドアの向こうから聞こえた。

 翌朝、オレは太陽の寝相で目を覚ました。すぐ隣りで小さく丸まって眠っている太陽が寝返りを打ったんだと分かって、オレは起き上がった。どうやらあのまま眠ったらしい。服もそのままだ。
 白いパジャマを着ている太陽は幸せそうに笑って眠っている。首にはオレとサムがあげたペンダントが吊るしてあって嬉しかった。時計はまだ四時だから、オレは風呂に入ってからもう少し寝ようと立ち上がった。
「行かないで」
 太陽だった。目をぱっちり開けて、オレのパジャマの袖を引っ張った。悲しそうな顔をしてオレを見つめている。小さな手が震えていて、すぐに起き上がった。
「わがまま言わないから」
 オレはどうしていいか分からなかった。どうして太陽がそんな事を言うのかも、オレは其処にいて何をしたらいいのかも。ただ、太陽がそう望むんだったら、オレは此処にいたいと思った。
「太陽、あの家で何があったんだよ?」
「何にもねぇよ、時々悲しくなるんだ。オレは家族が無くなっちまったからもう輝やサムや零しかいないんだって」
「本当にそれだけなのかよ?」
「それだけだよ」
 太陽は苦しそうに笑って、オレを抱きしめた。
「太陽?」
「頼むよ、今だけだから」
 太陽はそうささやいた。


「輝、太陽、起きてよ」
 サムの声がする。
 でもまだ眠い。このまま眠っていたい。暖かい誰かの体が心地いい。そいつの髪の毛が首筋に当たってくすぐったい。でも離れたくない。
「起きてってば、出かけるよ」
「置いていきますよ、二人とも」
 零の声もする。
 起きたくないんだって、オレはまだこのまま眠っていたい。いつまでだってこのままで居たい。腕の中にいる誰かが、起きようとしているけど、起きてほしくない。
「おい、輝」
 今度は太陽の声だ。
「起きろよ、寝ボケてんじゃねぇ」
 腕の中にいた筈の誰かは、思いっきりオレの頭を小突いた。
 流石に寝ていられなかったから、オレは目を開けた。眩しくて、布団をかぶろうとすると太陽がそれを引き剥がして、オレの上に馬乗りになった。
「起きろぉ〜!!!」
「うう、重い」
 オレはなんとか目を開けて太陽を見た。
 太陽はにっこりと笑ってオレを見つめていた。
「起きたか?」
「起きたからどけ」
 オレは何とか上半身を起こして、ぼうっとした頭を働かせた。もう朝なのか? そうだ、一度目を覚ました時は四時だったもんな。此処何処だっけ? ああ、トルコだ。あれ、さっきまで抱いてたのは?
「輝、寝ボケてんのか?」
「え?」
 まだ腹の上に乗っている太陽は、オレのほっぺたをつねって笑った。おかげで完全に目が覚めた。そうだ、抱いていたのは太陽だ。あのあと、太陽が寝るまで背中さすってたんだけど、気がついたら自分も寝ちまってたんだ。
「あ、寝癖」
 太陽は無邪気に笑って、オレの髪の毛を引っ張った。太陽の手を振り払って、オレは深いため息をついた。
「どうした?」
「べっつに〜」
 サムは太陽を腹の上からどけて
「輝、早くしたくして」
とオレの背中を押した。
 太陽を腹の上からどけてくれたサムに感謝しながら、オレは服を引っ張り出して風呂に向かって走った。急がないと置いていかれる。サムの事だからやりかねない。
 着替えて出て行くと、太陽はいつもの派手なTシャツに赤いミニスカートのカッコだった。いつもみたいな元気はない。理由は聞かなかったけど、やっぱり帰りたくないんじゃないだろうか?
「行くよ、二人とも」
「おう」
 オレはサムに言われて歩いて部屋を出た。太陽が後ろからついてくる。
「で、謎は解けたのかよ?」
「うん、トロイの木馬はアテナ神殿に飾られていた。中から敵兵が出て来てからの記録はないみたいだから、多分其処だ」
 サムは笑って太陽の手を引っ張ると、真っ直ぐホテルを出た。出たところの道路では、もう兄貴が車を準備して待っていた。オレは太陽と一緒に一番後ろの席に座った。兄貴の隣りには泉兄が座っている。
「輝、太陽、無茶して暴れちゃ駄目だからね」
「それよりさぁ〜、朝ごはんは?」
「起きるのが遅いから抜き」
 オレはまだ何か食べられるほど目が覚めちゃいない。抜きでもかまわない。って、昨日あんなに食べたのに、まだ朝ごはん食べれるのか?
「え〜」
「嘘だよ、キャンディあげるから黙ってて」
 サムはそう言って太陽の口に飴玉を放り込むと、オレにも一つ渡した。
「輝も食べなくちゃ駄目だよ」
「ほしくない」
「駄目、一つは食べて」
 サムに言われて、オレは一つだけ口に入れて外を見た。甘いけど、美味しい。太陽が一人で嬉しそうな顔をしている。楽しそうに外を見ている太陽の背中が可愛かった。
「なあ、ちょっと遠回りして見たいものがあるんだけどいい?」
 兄貴と泉兄は顔を見合わせて笑った。
「いいけど、何?」
「ついたら分かるよ」
 そのとおりだった。
 兄貴は大きい木馬のモニュメントの前を通って、写真をちょっと撮った。綺麗な海に面した広場だった。零が楽しそうに写真を撮った。
 この木馬は見た事がある。確か、映画のトロイに出てきたあの木馬だ。確か、ブラッド・ピットが出てたんだっけ? もしかして、本物?
「空、見たかったんだって」
 泉兄は笑って、カメラをしまった。楽しそうに笑った兄貴はそのまま木馬の前を通り過ぎて、遺跡に向かって車を走らせた。

 昨日と同じトロイ遺跡につくと、サムは朝早くてまだ誰もいない遺跡の中を一直線に歩いていく。何処に行くのか分からなかったけど、大人しくついていくと、大きな神殿じみた場所に出た。サムの説明によると此処がアテナ神殿らしい。
 後ろから追いかけてきた零と太陽があっと小さく声を上げた。何かは分からなかったけど、目の前にはあのサタナエルがいた。昨日と同じようにまたあの男を連れている。
 サタナエルはこっちを見ると笑って手を振った。
「サムくん、遅かったね」
「どうして分かったの?」
「秘密」
 それからヤツは銃を抜いて、真っ直ぐサムに向けた。
「ねぇ、何処にあるのかな?」
「知ってても賢治には教えないよ」
「死にたい? オスカーのいる天国に送ってあげてもいいんだよ?」
 サムは黙ってポケットに手を入れる。今日は銃を持っていないらしい。オレに向かって何か知らせようとしている。何かは全然分からないけど。
「輝、気をそらして」
「はあ?」
「お願い」
 サムはそう言って、オレを見つめる。
 よし、こうなったらいっちょやってやるか!
「ああ〜!!!!!」
「そんなの引っかかると思った?」
 サタナエルはオレに向かって近寄ってきた。それから太陽の腕を掴んで
「ごめんね太陽ちゃん、サムくんがあの調子で協力しないんだったら君には死んでもらわなくちゃ」
とにやりと笑った。
「言うよね?」
「アテナ神殿の中にある筈だけど」
 サムはそう言って、悔しそうな顔をした。
 太陽はその瞬間にサタナエルの腕をひねり上げて笑った。
「おいおい、いい加減覚えろよ、オレには銃なんてきかねぇぞ」
お前はターミネーターかよと思わず突っ込みたくなったけど、黙ってもう一人の男に向かってオレは歩いて近寄った。そして拳を思いっきり後ろに引いた。
「おいテメェ」
「ごめんね輝、殺したくはないけど仕方がない事だから」
 そいつは確かにそう言った。サムと同じ、優しい声だった。少しだけ低い気がしなくもないけど、そっくりだった。だからオレは殴ろうとして後ろに引いた拳を下ろした。
 男は真っ直ぐ銃をオレに押し当てて
「賢治は離してもらえる? 君だって目の前で友達を殺されたくないでしょ?」
と低い声で言った。やっぱりその声はサムに似ている。
 大きなサングラスで誰なのかよく分からない。でも、コイツは知っている筈だ。何処かで一度は会った事があるような気がするんだ。きっとサタナエルがそう思わせる為に雇った男なのは確かだけど、でも、まんまとその罠にかかっちまった。
 太陽は何も言わずにサタナエルを離すと、真っ直ぐオレの方に向かって歩いてきた。
「お前、誰だよ?」
「さあ?」
 太陽は男を殴ろうと拳を真っ直ぐ後ろに引いた。さらさらと靡いた髪におわったなと一瞬思ったけど、その逆で、男は太陽を投げ飛ばして地面に叩きつけていた。ばしっと凄い音が辺りに響いた。太陽は背中を思い切り打ち付けたらしく、気を失っていた。
 マジかよ、この男一体誰だよ? あの太陽を投げ飛ばしたぞ。相当な合気道の使い手だろ? こうなっちまうとオレには勝てないんじゃ……。
 オレは深呼吸をすると拳を握って軽くジャンプした。その瞬間、足首がズキズキと痛み出した。それもかなり痛い。そうだった、昨日挫いたんだった。ヤバい絶対勝てねぇじゃねぇか。
 オレは必死で考えた。剣道は二段を持ってるけど、そんなに得意でもなければ、竹刀がある訳でもない。合気道は一度習っただけで、才能がないからやめたし、柔道は性に合わないからやってないし、空手は一応黒帯だけどボクシングほど得意じゃない。
 どうしたらいい? どうしたらこの男を追い返せる? せめて太陽の意識があったら、意識が戻るまで何とか持てば……。
 男は真っ直ぐオレの方を見た。そして、拳をぐっと後ろに引いてた。マズイ、殴られると直感で判断して、オレはしゃがんで避けると同時に脚を蹴った。でもあっさり避けられた。何こいつ、めちゃくちゃ強いじゃん。
 サムが後ろで暴れている声が聞こえる。あの二人を助けに回れる余裕なんか全くない。オレが太陽みたく投げ飛ばされないように、避けるので精一杯だ。
「輝くん、大人しくしたらどう?」
 サムと零はサタナエルと別のごっつい男達につかまっていた。ヤバイ。馬路でどうしたらいい? 何処かでゆっくり観光している兄貴が助けてくれる筈ない。泉兄もだ、二人ともケンカとは全く縁のない生活をしているんだから。まさか、ブラックジャックみたいにメスを持って歩いている筈ないし。
 オレは立ち止まって、大人しく手を上げた。仕方がない。此処は真面目に負けを認めるしか道がない。チェスでは無敵のサムだってこんな局面は諦めるだろ?
「ごめん、輝。つかまっちゃった」
 サムが残念そうな顔をして、手を上げて言った。零がハイヒールで誰かを殴ったらしい、靴底の後が頬に残ったままの男が零の腕を押さえつけている。鼻血を流しているところから見て、相当苦労して捕まえたんだろう。
「サム、オレこそごめん、勝てない」
「諦めててどうするんだよ?」
 太陽の声がして、オレは振り向いた。其処には確かに太陽がいた。男の手首を蹴っ飛ばして銃を弾き飛ばした。サムがその瞬間を待ってましたとばかりにサタナエルの鳩尾に肘鉄を決めて、脱出。銃を奪い取った。
 オレは零を押さえつけている男の銃を奪い取って、背中を思いっきり蹴っ飛ばした。ほかにもいたサタナエルの仲間をボコボコにしてから太陽を見た。
 太陽は笑いながら男の前で大笑いをしていた。男は完全に気を失っている。
「どうだ参ったかぁ〜!!!!」
 だから、それって悪役の台詞だから。お前、正義の味方なんじゃないのか?
 サタナエルはサムに任せて、オレと太陽は辺りを見回した。
 近くには石がごろごろ転がっていて、何処にもトロイの木馬は転がっていない。大体、人が入れるほどの木馬がこんなところに本当にあったんだろうか? 途中にあった、石垣の間は狭かったし、入ってこれる筈がない。映画で見たトロイの木馬は凄く大きかったし、絶対にあんな通路を通れる筈がない。
「輝、地面の石を見て。何か書いてない?」
 オレは地面をじっと眺めながら、ゆっくりと歩いて石を探した。文字はなかなか見つからない。
「あった」
 太陽がそう言って、オレの腕を引っ張った。砂を払うとちゃんと文字が刻まれた石があった。細かい文字だからところどころ欠けたりしていたけど、隣りについている紋章みたいな丸い模様が凄く綺麗に残っていた。
 オレと太陽は顔を見合わせて、その紋章を押してみた。どうやらボタンみたいなものだったらしい。それはへこんで、石版が浮き上がった。その下には大きな穴があって、陽の光で照らされた穴の中には、トロイの木馬の顔だったらしい大きな木の板と石板が一枚ずつ出てきた。これが、あの有名なトロイの木馬? 土をかぶっているけど、全然腐っていない。結構頑丈な板で出来た大きな顔だ。
「やった、やったぁ!!」
 太陽が嬉しそうに笑って、石板を持ち上げてそれをぎゅっと抱きしめた。幸せそうな笑顔で、ぎゅっと埃まみれの石板を抱きしめる太陽は凄く可愛かった。
「ねぇ、それを渡してよ」
 サタナエルがそう言って、太陽の肩をたたいた。いつの間にか男が銃を握って、太陽に向けていた。サムと零は二人で座って、何も出来ずにいる。いかにも危なそうな男達に囲まれて、怯えている。
「太陽ちゃん、死にたいの?」
 サタナエルはそう言って笑うと、太陽の背中に銃口を押し当てた。
「これは過去を知る為の大きな手がかりだ。お前らみたいな連中が所有していいものじゃない」
「それは大昔の戦争の記録なんでしょ?」
 太陽はますます力を入れて石板を抱きしめる。
 サタナエルは面白がっているらしい。ニコニコと笑って、そんな太陽の心臓の位置に銃口を強く押し当てた。太陽が怯えた目をオレに向けた。
「でも、いつだって世界は戦争の色に染まってるよ。今更そんなものを知ってどうするの?」
「うるせぇ、黙れよ」
 オレはそう口を挟んだけど、男に思いっきり背中を蹴っ飛ばされた。オレは地面に押さえつけられて、もう抵抗する事も出来なかった。畜生、足首さえなんともなかったら、この状態をどうにか出来たのに!!
「平和憲法を掲げている日本だって、自衛隊と名前を変えた軍隊を持っているんだよ。アメリカにだって対等に立ち回れるくらい高価で危険なミサイルを持っている。君だって本当は分かってるんでしょ? この世界から戦争が無くなったりしない。君はもっと外の世界を知らなくちゃ。そんな優しい事を言っていたらこの世界で生きていけないよ」
 サタナエルは笑ってオレの前にしゃがんだ。
「ねぇ、輝くん。君だって死にたくないでしょ? 太陽ちゃんを説得してよ」
オレはじっとサタナエルを睨みつけると
「やなこった、そんな事するくらいだったら死んだ方がマシだぜ」
とはっきり言ってやった。そうだ、このまま石板を奪われるくらいだったらこの場で鉛弾食らって死んだ方がマシだ。痛いだろうけど、その方がずっといい。
「本当にいいの? 痛いよ〜」
「さっさとやれよ。でも覚えとけ、死んだらお前ら全員呪い殺してやる」
 オレは泣き出しそうな顔をしてこっちを見ている太陽を見つめた。
「輝!!」
 太陽の声が聞こえたから、オレは目を閉じた。きっと痛くて、死ぬのが怖くて泣いちまう。そんなカッコ悪い姿、見せたくない。それでも、宝を目の前で横取りされるよりずっといい。
 その時だった。目の前に重い石板が落ちてきて、暖かい何かが上に覆いかぶさった。それが何かは分からなかったけど、銃声が響いて、痛くもないのにオレの背中は血で濡れていた。
 ”HELL”の連中が逃げていく足音が聞こえたから、オレは起き上がった。背中に乗っかっていたのは太陽で、心臓の辺りから血を流していた。
「いってぇ……」
 今にも消えてしまいそうな細い声が聞こえて、まだ生きているんだと分かった。急に気分が悪くなって、太陽が死ぬんじゃないかと思うとパニックって何も出来なかった。
「太陽、しっかりしろ」
 サムと零が走って駆け寄ってきた。
「救急車、救急車を呼ばなくちゃ」
そう言ってサムはケータイを出したけど、太陽がそんなサムの腕を引っ張った。苦しそうな笑顔を浮かべて
「駄目だ、大事になっちまうぅ。この宝が誰かに踏み潰されて壊される訳にはいかねぇよ」
と細い声が辺りに響く。まだ誰もいない静かな遺跡の中で、太陽はふざけた事を言っている。自分が死ぬかもしれないのに。
「何言ってるの?」
「とにかく、駄目だ……」
 そういう太陽の肩に泉兄が黄色いパーカーを掛けた。
「分かった、オレに任せて」
黒い髪が揺れて、何処から持ってきたのか、鞄を出した。
「太陽ちゃん、血液型は?」
「O型」
「輝がO型だよ」
 サムはA型で、零はAB型だ。此処にいる人間でO型なのはオレだけだ。あと、何処にいるかは分からないけど兄貴と。多分、泉兄には採血させてくれないだろうけど。
 太陽の血は流れて止まらない。オレの手を真っ赤に染めていく。顔色はどんどん悪くなっていって、手が冷たくなっていく。 「分かった、輝くんはついてきて。零とサムくんはその宝の事を任せるよ」
 泉兄はそう言って、鞄から注射器を出して、太陽の腕に打った。
「これで少しは痛みが減る筈だからね」
それからオレに慎重に抱っこしてつれてくるように言って、走って車の方向に戻っていく。オレは太陽を抱き上げると大急ぎでその背中を追いかけた。
 車に乗ると、兄貴がオレに腕を出すように言って凄いハイスピードで太い針を腕につきさした。不思議と痛みを感じない。兄貴、注射が上手い。医者って、本当だったんだ。今まで信じた事がなかったんだよ、医者なのに風邪をひいたって見てくれないし。
「悪いな輝、本当は取っちゃマズイ量一歩手前まで取るから当分貧血気味になるぞ」
「了解」
「よし、大人しく寝てろ」
 オレは言われたとおり兄貴の隣りで横になると、目を閉じた。後ろで、泉兄が太陽にでかい声で何かを話しかけている声がきこえる。
「ごめんね、今は麻酔を持ってないから痛いよ」
「だいじょぶぅ……」
 太陽、死なないよな? 撃たれたのって心臓じゃないよな?
 そんな事を考えている間にも、時間はどんどん過ぎていく。泉兄が金属をガチャガチャいじっている音が聞こえる。それと太陽の小さな呻き声。苦しそうなのに、なぜだか泣いていない。
 車は細かい路地を長い間うろうろして、そしてようやくホテルの方向に車を向けるのを感じた。兄貴が思いっきりハンドルを切った。凄い勢いだったから、オレはドアに頭を打ち付けた。
「太陽、死なないよな?」
「大丈夫、絶対に助けるから」
 泉兄がそうはっきりと返事してくれて、オレはほっとした。それと同時に、頭がズキズキと酷く痛んだ。少し頭を上げただけで、酷い立ちくらみになる。気持ちが悪い。冷や汗が流れていく。
「じっとしてろ、起きるな」
 兄貴がそう言って、車を止めるのを感じた。真っ赤な袋を抱えて、兄貴がオレを背負うけど、頭に血が回っていないからか、酷い吐き気がした。この状態じゃ立ってられないなと、直感で分かった。
 オレが降ろしてもらったのはベッドの上だった。ホテルのベッドだって事は分かった。太陽のパジャマが近くに畳んであったから。ふかふかしていて、起き上がれないオレにはちょうどいいくらいの温度だった。
 兄貴が隣りで赤い袋を睨みつけては、泉兄の背中を悲しそうに見つめている。オレは兄貴の服を引っ張って
「兄貴、気持ち悪い」
と一応知らせておく。早いとこ、血を抜くのはやめてもらわないと、本気で死んじまう。
 兄貴はため息をついて
「仕方がないか」
と呟いた。
 泉兄が立ち上がって、血まみれの手をその辺のタオルで拭いた。もしかしてその血って太陽の? そんなに流して、大丈夫なのか? 死んだりしないのか?
「空、オレが」
「待て、お前にだけはされたくない!!」
 兄貴は金切り声を上げて、泉兄から離れた。泉兄は楽しそうに笑って、兄貴の腕を引っ張った。
「だったらどうするんだよ、オレがやったげるって」
ああ、兄貴は泉兄に採血の実験体にされて、酷い目にあったんだったっけ? 注射の針がちゃんと血管に刺さらないから針が曲がったとか言ってたな。
 泉兄は笑いながら、兄貴の腕に湿ったコットンをこすりつける。絶対、兄貴が怖がってるのを面白がってる。今はそれどころじゃないんじゃ……。
「自分でやるから、お前はさっさと傷を塞げ」
「塞いでもいいけど、今すぐ弾を抜かなくて大丈夫?」
「だったら抜けよ」
「血が足りない」
「お前、ブラックジャックじゃなかったのか?」
 泉兄は黙って兄貴を眺めてから、オレの腕から注射の針を抜いた。兄貴と違って荒っぽい。めちゃくちゃ痛い。血が少し流れているのか、肘の内側が濡れている。
「大丈夫? オレ注射の才能だけはないみたいでぇ〜♪」
「いいから太陽は?」
 オレは何とか起き上がって、すぐそばにいる筈の太陽の姿を探した。立ちくらみで目の前がぼうっとする。頭がズキズキと痛くて、座っている事さえ出来ない。
「輝、寝てろ」
「太陽は?」
「大丈夫、泉の腕を信じろよ」
 兄貴はそう言って針を自分の腕に突き刺して(うえぇっ!!)、オレの肩を押した。オレは大人しく兄貴に従って、ベッドに横になって、目を閉じた。

 気がつくと、オレはサムの隣りで眠っていた。足の下に分厚い毛布の束が入れてあって、頭よりも高い位置にある。普段だったら頭に血が上って気分が悪い筈なのに、今はこの方がずっと楽だ。
 サムは起きていて、何かの袋を見つめている。どうやら点滴の袋らしい。目が霞んでいてよく分からないけど、ぽちゃんぽちゃんと水が落ちていく音がする。腕に冷たい針の感覚もある。
 酷い頭痛は治まったけど、まだ頭はぼうっとしている。
「サム?」
「あ、気がついた?」
 サムはにこっと笑ってオレを見た。零がその隣りにいる。はっきりした姿は見えないけど、黒いぼんやりしたものが見える。それがこっちに向かって近づくのが見えた。
「大丈夫ですか? 顔色、悪いですよ」
 冷たいひんやりした手が額に触れた。薬指に指輪をはめている。見覚えのないシンプルなデザインの指輪で、いかにもサムが選びそうな指輪だ。派手好きの太陽やオレが絶対に選ばないタイプの指輪だからな。へえ、サムがプレゼントしたんだぁ〜。お熱いですねぇ、全く。
「大丈夫」
 何とか起き上がって、オレは辺りを見回した。
 急に起きたせいか、目の前が一瞬真っ暗になって頭痛が復活したけど何とか目を開けた。気分が悪かったけど、それでも太陽が心配で仕方がなかったんだ。こんな気持ちは初めてだった。胸が痛い。
 太陽はすぐ隣りで眠っていた。何も起き上がる必要はなかった。すぐ隣りで幸せそうに笑って、眠っていた。思いのほか元気そうだ。
「輝、寝てなくちゃ駄目だよ」
「太陽は大丈夫です、お兄様がすぐによくなるって言ってましたから」
「当分動いちゃ駄目ともね」
 サムは笑って、オレの肩を押してベッドに押し戻した。赤い髪が少し揺れて、零が好きな優しい笑顔を浮かべながらオレの髪を子ども扱いして撫でる。わさわさと撫でるから髪の毛がぼさぼさになった。まだその腕を振り払えるほど元気はないから、されるがままで目を閉じた。
 そういやぁ、小さかった頃はよく風邪を引いて、兄貴が看病してくれたっけ? 看病してくれる親がいなかったから、世話焼きの兄貴に甘えてたんだ。いつもこんな風に頭を撫でてくれたんだっけ? 懐かしいな。確か、すりりんごを持ってきてくれたんだ。何も食べられないくらい気分が悪くても、それだけは食べられたから。
 オレは隣りの太陽に向かって左腕を伸ばした。
 眠っている太陽の腕の確かな体温を感じて、オレは嬉しかった。死んでいないんだ、太陽はちゃんと生きているんだ。元通りじゃなくても、ちゃんと生きているんだ。それだけで嬉しかった。死んだらもう二度とオスカーの時みたいに会えないけど、生きていたら病院暮らしでも会えるんだから。

 次に目を覚ましたのは自分部屋だった。
 どれくらい寝ていたのかは分からなかったけど、どうやら二日くらいぶっ続けで眠り続けていたらしい。その間ずっと付っきりで兄貴が看病していたんだって。オレは何も知らずにぐっすり熟睡していたんだけど、そう母さんが言っていた。親父が珍しく心配して部屋に入ってきたんだとか。
 母さんは幸せそうだった。親父と一緒にいられるだけで幸せだって、笑っていた。気まぐれだから今度はいつ何処へ旅行に行くか分からないけど、歩ける間は何処までだってついていくんだって、そう言って幸せそうに微笑んでいた。オレにも、なんとなく母さんの気持ちが分かった。
 母さんが親父とまた何処かに出かけてしまってからすぐ、兄貴が部屋に来た。手には何かの器を持っていて、嬉しそうに笑っていた。
「お、目が覚めてたか」
「おう」
 オレは返事して、起き上がった。
 腕にはまだ点滴の針が刺さったままだったけど、兄貴がすぐに外してくれた。やっぱり、泉兄と違って上手だった。
「ほれ、食え」
兄貴は器とスプーンをオレに押し付けて、ピアノの前から引っ張ってきた椅子に座った。器の中にはすりりんごが入っていた。それから笑って
「太陽ちゃん、病院に入院してるから明日になったら会いに行ってやれよ」
とオレの背中を叩いて部屋を出て行った。
 オレはそんな兄貴の背中を黙って見送って、今もちゃんと生きている太陽の事を考えた。なぜか、考えるだけでどきどきして、甘酸っぱい不思議な気持ちになった。こんなの初めてだ、恥ずかしいような心地良いような悪いような、そんな変な気持ち。
 そうか、これが好きって気持ちなのか。サムが言っていたのとは少し違うような気がするけど、友達や親友とはちょっと違う、変な『好き』の気持ちだった。でも、それも悪くない。
 オレは器を置いて、椅子を引っ張って行ってピアノの前に座った。そして鍵を開けて、ピアノの鍵盤を強く叩いて、小さく歌った。古い洋楽。少し悲しい恋の歌を……。


Fine.



UPが遅れてしまってごめんなさい。
実は夏休みの間に書きあがっていたものです。
(こうやってUPしている時、すでに8まで書きあがっている)
またなかなかUPできないかもしれないですが、優しく見守っていただけたら幸いです。



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