スカイブルーのトレジャーハンターW
  〜青い海で永遠に〜


 オレはお気に入りの剣のペンダントを首に吊るしてから、皮の鞄を持った。ニーハイをひざの上まで引っ張って、大好きな金髪を手串で一度梳いた。青いセーラー服のスカート丈は、いつだって喧嘩出来る位置だし、履きなれた茶色のローファも調子がよさそうだ。少し鬱陶しいお気に入りの髪を振り払って、オレは深く息を吸い込んだ。
「いってきまぁ〜す」
 そしてオレは駆け出した。

 見慣れた学校までの道をオレは歩いた。
 田んぼに囲まれた道は雑草まみれだけど気にしない。鮮やかな黄緑色の稲が風に揺れて、ギラギラと朝から眩しい太陽を見上げている。真っ青な空を小鳥が飛んで行った。
 少し前を歩くオレンジ頭の男子がポケットに突っ込んでいた手を出して額をぬぐった。大きなその背中に向かって、オレは声を張り上げて
「ひっかるぅ〜!!」
と呼んだ。
 当の本人は辺りをきょろきょろと見回しているけど、オレには全く気がつかない。少し長めの巻き毛が、陽の光りを浴びて輝いた。片手の鞄はいかにも軽そうで、持ち手には髑髏のキーホルダーがぶら下がっている。
 オレは駆け出した。
 まだ気がつかないヤツの背中に向かって全速力で走った。そして勢いよくその背中を右手で強く叩いた。オレンジ頭が痛そうに声を上げた。
「おはよ〜!!」
 オレはそう声を掛けた。
 コイツは神風輝、この空色町の大地主の子孫だ。でっかい家に住んでいるのに、なぜか医者の空兄と二人で暮らしている。輝によると、両親は自分達の事を忘れて海外で楽しく暮らしているらしい。そんな事はどうだっていいから、あんまり気にしないけど。
 輝はオレを見てまず始めに
「いてぇだろ、太陽」
と挨拶を返す気はなさそうな顔で言った。オレはごめんごめんと誤って、二人で学校に向かって歩いた。
 風が熱い。でも、オレは幸せだった。昔の事を考えたら、此処がサハラ砂漠だったとしても幸せだ。ちょっと嫌だけど、アラスカだったとしても。
「明日から夏休みだなぁ!」
 オレは輝にそう言って、にっこりと笑った。
「明日の準備は出来てるんだろうなぁ?」
「当然だろ?今日帰ってからでも出られるぜ」
「じゃあ大丈夫だなぁ」
 輝は笑って、オレの肩を叩いた。
 明日はカリブ海に、”HELL”を追いかける事になっている。なんでも、ランスロット・ブラックバーンって海賊の剣が盗まれたらしい。確か、オックスフォード大学だったっけ? それを取り返す事が今回の仕事なんだ。
 オレは自分よりも背の高い輝を見上げて、頷いた。生温い風が吹き抜けて行くけど、この日差しだとちっとも涼しいとは感じられなかった。
「暑いなぁ」
「夏だからなぁ」
 平然としている輝は相変わらず下駄を履いている。手には墨で書いたような空の絵の扇子を持っていて、絶えずそれを動かしている。
「いいよなぁ、輝。オレ、扇子を持つと必ず壊すんだよ」
「乱暴に扱うからだろ? 大事にしたら何年だって使えるぜ」
 輝は笑って、オレを扇子で小突くと
「まあ、太陽に扇子なんて似合わないけどな」
と笑った。
「じゃあ、何が似合うんだよ?」
「そうだな、戦車とか」
「はあ?」
「邪魔なものがあったら機関銃掃射でなぎ倒して、建物でさえも押しつぶしていくだろ? 太陽には一番似合ってるな」
「輝だって扇子なんか似合わねぇよ」
「何が似合うんだよ?」
「う〜ん……」
「やっぱり扇子と下駄だろ?」
 輝は楽しそうに笑って、オレの頭をぽんぽんと叩いた。当たってるから言い返せない。扇子と下駄以外に似合いそうなものってボクシンググローブくらいだし、そんなのカッコいいし……。  オレは黙ってご機嫌な輝の隣りを歩いた。オレンジ色の髪で、輝は確かにカッコいい。ケンカは強いし、ボクシング出来るし、おまけにピアノとギターまで自由に弾ける。背も高い。
 オレみたいなチビと違って、輝はなんだって出来る。
 オレに出来るのはヒエログリフを解読したり、ケンカしたり、ちょっと歌を上手く歌えて、米芾の臨書がちょっとだけ得意ってくらいなもんだ。自慢出来るのは書道だけ(これでも八段だぜ?)。
 オレも輝になりたいなぁと馬鹿みたいな事を考えながらオレは歩いた。

 教室にはもうサムと零が来ていた。
 いつもと同じように挨拶をして、オレは自分の席に座った。二日前の音楽会から、サムと零は仲がいい。ずっと二人で何かの話をしながらチェスをして、オレと輝の事は眼中にないって感じ。
 正直、寂しい。
 そりゃ、親友が幸せなんだったらオレは良いけどさぁ、すぐ近くにいる筈の二人が凄く遠く感じて寂しい。話し掛けづらいくらい、二人だけの世界になっちゃってるから、無理に話し掛けないようにしているけど。
 輝は何も言わずに、二人の背中を見ている。
「なぁ」
 オレはそんな輝に言った。
「あの二人、どうしたんだろうなぁ?」
「昔からだよ、いつもあんな調子」
 何か隠しているような顔で輝は呟いた。やっぱり寂しそうな顔をしている。いつもは明るい輝の表情も今日は暗い。オレと同じ事を思っているんだろうなぁと思いながら、オレは立ち上がった。
 今日こそは二人から直接話を聞いてやる!! オレ達を避けてる訳じゃねぇんだったら、どうしていつも二人なんだよって。輝の寂しそうな顔を眺めてるのにもいい加減飽きたって、はっきり言ってやる!!
 すると、零がオレの腕を引っ張って、サムの席の前に引きずってきた。何かと思って零をじっと見つめたけど、無視された。何をしようと思っているのか、全く分からないからオレはちょっと不安だった。
 零はオレを自分の椅子に座らせて、サムに
「輝さんの事はお願いします」
と言って、オレに向き直った。恐ろしいほど厳しい目で、ぎょっとするほど真っ直ぐな視線をオレに向けて、凄い勢いで机を拳で殴った。その音で教室の中は一気に静まり返った。
 輝とサムがこっちを丸い目で見ている。
 オレは零から視線を反らして、少し俯いた。
「なんだよぉ?」
 心臓が爆発しそうな勢いで脈を打っている。少し前までの零の事を思い出すとまた殴られるのかもしれないし、なんだか本当に怖かった。
 零は取調べをする刑事みたいにオレを覗き込んで
「桜野さん」
とオレの名前を何度も呼んでいる。絶対怒ってる。アニメだったらきっと髪の毛が逆立ってるような、凄い殺気を感じる。いつもの零だったら怖くなんかなんとも無いけど、今の零は正直言ってめちゃくちゃ怖い。
 オレは少し顔を上げて、零の表情をチェックした。
 思ったよりも優しい表情をしていた。楽しそうな、面白がってるような顔だ。少なくとも怒っている訳ではなさそうだ。ただ、何かを訊きたいみたい。
「桜野さん、輝さんの事をどう思ってるんですか?」
 零は真っ直ぐオレを見つめてそう言った。オレは黙って視線を反らすと
「親友……だけど」
と呟いた。零の視線がやっぱり怖い。オレに何を言いたいのかは分からないけど、真っ直ぐ過ぎるその視線が心底怖い。
 すぐ其処で優しい表情のサムが輝と話をしている。ああ、オレの聞きたい事が何にも聞けないぃ〜!! まあ、チャンスはこれからいくらでもあるんだけど。
「それだけですか?」
「うん」
 オレは大人しく頷くと、行儀悪く左足を椅子の上に引っ張り上げて、ぎゅっとそれを抱きしめた。お気に入りの金髪がまた顔に掛かって鬱陶しかった。
「好きですか?」
 零はオレの肩を揺すって、囁くような小さい声で言った。
 オレは黙って頷いた。
 何が聞きたいのか全く分からない。不安は一層募るばかりなのに、輝とサムは助けてくれそうにない。先公が教室に入ってくるのもまだだ。
 すると、サムが笑いながら立ち上がった。それからイギリスの紳士みたいに零の肩を優しく叩いて、さっきまでサム自身が座っていたオレの椅子に座らせて
「そんな乱暴に訊いたって太陽は本当の事を話してくれないよ」
と優しい口調で言った。
「ねぇ、太陽」
 サムは子供をなだめるように、オレの頭を撫でた。なんか、同級生なのに、子ども扱いされてねぇ? まあ、いいけど。ちょっとムカつくから、視線は反らしたままにしておく事にした。
「太陽がもし、ジュリエットだったとして、輝がロミオだったら、やっぱり家出してでも結婚する?」
 何を訊かれてるのか、余計に分からなくなってきた。輝の事を訊かれてるのは確かだけど、どうしてそんな事が訊きたいんだよ……。どうだって良いじゃん、そんな事。
 サムは少し怒った顔で、レオナルド・ディカプリオみたいに片手をオレの顎にやってぐいっとオレの顔をサムの方に向けさせる。
 普段全く意識しない、大きな青い瞳がじっとオレを見ている。何でも見透かしそうな強い目をしている。堀の深い顔は、いかにも外人って感じで鼻が高い(ハーフだから、半分だけ外人なのか)。スターウォーズに出ていた頃のハリソン・フォードに似てる。もっと若くて、赤毛にしたらの話だけど。
「太陽、答えて」
 サムはそう言って、ますます顔を近づけた。我慢出来ず、オレは顔を反らしたけど、やっぱりさっきと同じように顔の方向を変えられた。
「答えて」
「オレ、誰とも結婚する気ねぇもん。インディ・ジョーンズのカッコしたハリソン・フォードにプロポーズされてもヤだぜ」
 正直にそう言って、オレはサムの手を振り払った。それから遠くの空を見て、家に帰ったらまたインディ・ジョーンズを見ようと考えていた。レイダースが良いなぁ。
「もし、レオナルド・ディカプリオがプロポーズしても嫌?」
「嫌だ、ママみたいに悩みたくねぇもん」
 そうだ、ママだって結婚の事で何度も揉めたんだって言ってたもん。オレが何度も転校したのだって、そのせいだ。なんとかっていう好きでもないオッサンと婚約させられて、それが嫌だったからって家出して家族に追いかけられてたんだ。オレは、オレは絶対、結婚なんかしねぇ。そんな思い、もうしたくない。
 すると、サムは不思議そうな顔をした。オレはそんなサムの顔を見つめて、少し深呼吸をした。オレは正直に言ったら良いんだもん。何も怖くなんかねぇもん。
「ねぇ、どういう事なのか話してよ、親友でしょ?」
 うう、どう逃げよう。サムと口ゲンカしたって絶対に勝てねぇもん。正直な話はしたくねぇ。絶対におかしいと思われる。
「嫌だ」
 オレは席を立って、トイレへ逃げようとした。戻ってくる頃には話題が変わっている。オレが訊きたい事だって、訊くチャンスがある筈。
 ところが、サムはオレの腕を掴むと、少し乱暴に椅子に座らせて、さっきの零と同じ勢いで机を両手で叩いた。窓が一瞬震えた。
「さ……サム?」
 オレは恐る恐るサムの顔を見つめた。
「無敵の桜野太陽は敵に背中を向けて逃げるの?」
おい、敵かよ?! サムは味方だろ? とは、思ったけど言い返せなくて黙っていた。
 サムがこんなふうに怒鳴ったのは初めてだ。今まで何があっても怒鳴らなかったのに、はじめて……。オレが背中を向けたから、怒鳴ってるのか?
「もう一度訊くけど、太陽のお母さんみたいに悩みたくないってどういう事なの? ちゃんと理解出来るように説明して」
 オレは仕方がないから、黙って首を横に振った。それからこの場から逃げようと、立ち上がろうとした。でもサムは逃げようとしたオレの肩を押さえつけて、オレの顔を覗き込む。
 サムの力、思ってたよりも強い。どんなに頑張っても立ち上がれない。ずっと無敵だったけど、男と女ってやっぱり力に差が在り過ぎる。オレが頑張って筋トレしたって、輝やサムには絶対に力じゃ敵わない。
 オレはあきらめて、サムを見た。
 やっぱり怒った顔のまま、サムはオレを見つめている。教室中の視線を浴びているのを感じるけど、サムはそんなの気にも留めない。サムの力がますます強くなる。それが怖かった。
「今日、帰ってからじゃ駄目?」
 オレは何とか、そうサムに言った。
「約束破ったら絶交だからね」
オレは小さく頷いた。

 放課後、オレはアヒルだらけの通知表を見ながら、同じくアヒルだらけの通知表を見ながら笑っている輝と、オレの事をじっと見つめているサムと零の隣りを歩いていた。
 田んぼの真ん中で、オレは小さな孤独を感じていた。それは輝も同じように感じているらしい。オレはそれが怖かった。平気そうに振舞う輝もそうらしい。何処かぎこちない。
 サムはいきなり立ち止まった。零はそんなサムの顔を見て、少しぎこちない笑みを浮かべて立ち止まった。
 輝がオレとサムを見て不思議そうな顔をして立ち止まった。躊躇いがちに何かを言おうとしているみたいだけど、結局何も言わなかった。
「太陽、約束どおり話して」
 サムはそう言って、オレの顔を覗き込んだ。
「え? 今?」
 オレは少し考えてから、三人の顔をじっと見つめた。零もサムもめちゃくちゃ真顔でオレを見つめている。輝は訳が分からないらしくて黙っているけど、明らかにオレが隠している事を知りたがっている。
 親友だけど、きっとこんな事を話したら引く。前も親友だと思ったから話したのに、ケンカになって絶交した事だってある。いつ転校していくかも分からない訳だし、変だと思ってまた同じ事になるかもしれない。出来れば話したくない。
「じゃあ、どうして話せないのか、分かるように説明して」
 サムはそう言って、オレの腕を引っ張った。真っ直ぐ50メートルくらい先の公園に向かって歩いていく。零と輝が何かを話しながら後ろを追いかけてくるのを感じる。
 暑い筈のこの道を歩きながら、オレは冷や汗をかいていた。仕方がないから、オレはサムに引っ張られたまま歩いた。オレの家は見えているのに、帰るのはもう少し後になりそうだ。
 公園に着くと、サムは真っ直ぐベンチに向かって行って、オレを座らせた。
「ほら、説明は?」
「分かったよ」
 オレはあきらめて覚悟を決めた。此処で絶交だったら所詮其処までの友達でしかなかったんだとあきらめよう。零はどうか分からねぇけど、輝とサムはその程度の友達じゃないって信じよう。
 深く息を吸い込んで、オレは真っ直ぐサムを見据えた。
「今まで何度もこの事を友達には話してきたけど、いつだって必ずその友達とは絶交する事になるんだよ。だから話したくない。輝とサムと零がその程度の友達だと思ってはいねぇけど、今までそう思って話す度に転校するまでひとりぼっちになる。オレはそれが怖いんだよ」
 輝が笑ってぶらんこに乗ると
「だからどうした? お前は無敵のトレジャーハンターじゃなかったのか?」
と優しい口調で言った。
「そうだよ、俺達そんなに弱い繋がりじゃないでしょ?」
 サムもそう言って笑った。
「そうだな、そうだよな」
 オレは笑って胸を張ると
「じゃあ、話すけど」
と言って立ち上がった。それから輝の隣りのぶらんこに乗ると
「オレのママはお姫様だったんだぜ、好きでもない人との戦略結婚が嫌だからって逃げたんだ。オレは追っ手に追われてる。見つかったらまた転校だ」
と笑って言った。ぶらんこはあんまり強く揺れていないから、オレは安心して座っている。
「何バレバレの嘘ついてるんだよ」
 輝はそう言って飛び降りると、オレの背中を押し始めた。力一杯押すから、椅子の部分が地面に対して直角になっちまった。ああ、死ぬ……死ぬぅ〜!!
「やめろよ。オレは高所恐怖症なんだぞ!!」
「マジかよ?」
 輝は少し笑ってからぶらんこを止めると、冷や汗でびしょびしょのオレの肩を叩いた。
「大丈夫か? 顔、ヤバいぞ」
輝は笑って、オレの前にしゃがんだ。
「ごめんごめん、知らなかったから」
「で、本当はどうなの?」
 サムはそう言って、オレの肩を叩いた。
「知るかよ、オレが何度訊いたって父ちゃんもママも今のを言うだけだから」
 オレは少し深呼吸をした。オレ自身、どうしてこんなに引越しが多いのかは知らない。父ちゃんが出張ばかりしている訳じゃないし、ママは何かを恐れてる。それが何かは分からないけど、ゴキブリとかそんなんじゃない事は確かだ。うちのママ、ハエを手で叩き落す人だからな。
 でも一度だけ、オレは誘拐されかけた事がある。正体は知らない、自慢の拳で逃げられたから。でも、ママが言っている事は限りなく本当に近いらしい。ママにその事を話したとたんに、引越ししたから。
 サムは少し不思議そうな顔をしてから、ポケットに手を突っ込んだ。それから鞄を開けて、小型のノートパソコンを出した。サムはMACが好きらしい。画面には大きな林檎のマークが浮かんでいた。
「太陽、本当に知らないんだよね?」
「おう」
サムはオレの掌に黒いシールみたいなものを載せた。少し分厚い、真っ黒な丸いものだ。シールみたいに台紙にくっついている。
「じゃあ、これを食卓の裏に貼り付けておいて」
「なんで?」
「盗聴器だよ、一度調べてみる価値がある筈だから」
 サムはにこっと笑って
「明日から出かけるでしょ? その間の話は全部録音しておくから、それを聞こう」
と言って、零の手を引いて滑り台の上に上った。小さなパソコンの画面を見ながらキーボードを叩いている。何しているのかは全く分からない。
「お姉ちゃん、何してるの?」
 道路の方からあんこの声が聞こえて、オレはさり気なく盗聴器をポケットに入れた。
「あ、あんこ!!」
 オレは手を振って駆け出した。
 あんこはオレの妹だ。あんまり似ていないってよく言われるけど、オレはそれで良いと思って気にしていない。趣味も全く違うからな。
 あんこは少し茶色っぽい黒髪で、ショートカットにしている。オレの髪とは違って少しぱさぱさした真っ直ぐの髪だ。大きな目でちょっとムカつくヤツだ。
「お姉ちゃん、友達?」
「おう、輝とサムと零だぜ!!」
「知ってる、今お姉ちゃん達を知らない人は空色中にはいないから」
 あんこはため息をついて、オレの髪を払うと
「もうちょっと気をつけてよね。お姉ちゃんのせいで、私、いろんな人に声を掛けられるんだから」
と言い、オレのスカートを引っ張った。オレと同じセーラー服をちゃんと着ているあんこは少し怒った顔をしていた。
「皆言ってるよ、お姉ちゃんは変わってるって」
「人と一緒じゃ面白くねぇもん」
 すると、サムがあんこの髪を撫でて
「へ〜、太陽には妹がいたのか」
と笑った。あんこは少し赤い顔で黙った。
「あんこちゃん、太陽は変わってていいんだよ。変わってるからこそ、太陽なんだから」
「っていうか、太陽が変わってなかったら気持ち悪いだろ」
「いいえ、きっと気が狂ってしまったに違いありません」
 零と輝は笑いながら、オレの肩を叩いた。少し恥ずかしそうに笑ってから、あんこは家に帰った。
「あんこちゃんは何か知ってるかもしれないな」
 サムはそうつぶやいて、パソコンの画面をまた見つめていた。

 家に帰ると、あんこはめちゃくちゃおしゃれなカッコでオレを待っていた。
「お姉ちゃん、あの人パステルさんだよね?」
「え? サムの事か?」
 あんこは黙って頷くと、メモ帳を出して
「何が好きなの? 彼女いるの? どんな人?」
と答える暇もないくらいの勢いで質問しまくる。前にも何度かこういう事があったから、オレはあんまり気にしない事にして、あんこの顔をじっと見つめた。
「何なんだよ、オレはサム仲良くなってからまだ二週間だ。そんなに詳しくしらねぇ」
「それでも知ってるでしょ? どんな人?」
「ハッカーみたいにパソコンを使いこなせて、早撃ちが得意で、頭が良くて、本と映画が好きな人」
 あんこはそれをメモに書いて、それからオレの肩を思い切り揺すった。
「彼女は?」
「しらねぇ!」
 オレは鞄を放り出すといつものスカートとお気に入りのタンクトップを着て、駆け出した。
「オレ、これから輝の家に遊びに行くから」

 帰ってくるなり、ママは真剣な目でオレの顔を見つめて
「太陽、神風って家の子と遊んでいるって本当?」
と心配そうな声で言った。少し茶色っぽい黒髪がさらさらと揺れた。
 ママの髪はオレと同じ髪だ。真っ直ぐでさらさら、おまけに昔はめちゃくちゃケンカが強かったらしい。昔はよく男子とケンカしていたとか、友達は皆男だったとか言って、オレの事を懐かしいって話してくれる。
 なのに、いきなり輝の事で心配そうな顔をしている。訳が全く分からないんだけど。
「本当だけど」
「今すぐ絶交しなさい」
「はあ?」
「ママが追われているお姫様だって事を忘れたの? 太陽も追われてるのよ?」
「でも、どうして輝と絶交しないといけねぇんだよ」
 ママは困った顔でオレを見つめているだけ。オレはどうして良いか分からなくて、黙ってそんなママを見つめていた。さらさらと流れる長い茶色の髪が悲しそうに輝いていた。

 翌朝、オレはなぜか輝に起こされた。抱き枕を引っ手繰られて、まだ寝ているのに座らせられて
「おい、起きろよ」
と強く揺すられた。カッコいい服を着ている。
「輝?」
 オレは目をこすって、少し考えた。
 此処はオレの家だよな? そんでもって、オレは自分の部屋で寝てるんだよな? じゃあ、何で輝が此処にいるんだ?
「早くしろよ、飛行機に間に合わねぇだろ?」
 輝はオレが昨日出しておいた服を押し付けると
「早く着替えろよ、荷物を積んどくから」
と言って部屋を出て行った。
 なんだかさっぱり分からないまま、オレは服を着替えるといつものトランクを持ってお気に入りの剣のペンダントを首に吊るした。それから髪を手串で軽く梳いて、オレは家を出た。ママが凄く心配そうな顔をしながらオレを見送っていた。

 零とサムはもう車に乗っていた。まだ眠いオレは輝に引っ張られて車に乗せられた。空兄が運転席で笑っていた。
「太陽ちゃん、目覚まし掛け忘れたの?」
「掛けたんだけど……」
「自分で止めてまた寝たらしいぜ」
 輝は面白がってオレの肩を叩いた。サムと零が笑いながら、仲良く寄り添ってる。オレや輝といる時とは全く違う二人に少し躊躇いながら、オレは輝の膝を借りてもう一寝入りする事にした。輝は何も言わずに寝てしまったから、勝手に膝を借りて目を閉じた。

 目を覚ますと飛行機の中だった。見慣れた大きな飛行機じゃない。なんか、チャーター機って言うか、自家用ジェットって言うか……とにかく小さい。
 オレはのろのろと椅子の上に膝立ちになると、とりあえず辺りを見回した。
 輝が一瞬こっちを見たけど、またすぐに視線を窓の外に戻した。後ろの席ではサムと零がチェスをしている。空兄が昼寝しているのも見える。ほかには乗っている客がいないのも分かった。
 オレは大人しく座ると、外を見た。
 うう、高いのは怖いから、飛び立つ前に寝ることにしよう。もう寝られないくらい寝たけど、気にしない。
「太陽、やっと起きたのか?」
 輝はそう言って、オレの顔を覗き込んだ。
 大きな十字架のピアスを付けているらしい。オレンジ色のカッコいい巻き毛の下から覗いている。相変わらずシンプルな服装なのに、モデルみたいにカッコいい。いいよなぁ、背が高いやつは。
「おう、いつ飛行機飛ぶの?」
「もう飛んでるぜ?」
 輝はそう言って、窓の外を指差した。白い雲が遥か下の方に見える。人なんか全く見えないどころか、建物もイマイチよく分からない。……って事は、オレの足の下は床だけど、その下は何もないのか?
 オレは輝に抱きつくと
「何でお前ら平気なんだよぉっ」
と言った。言ったつもりではあったけど、か細い声がちょろっと出ただけだった。はっきり言って、輝にもあんまりよく聞こえていないみたいだった。
 急にガタガタと手足が震えてくる。目をぎゅっと強く閉じているのに、なぜか遥か彼方に見える地上と宙ぶらりんの足が目に浮かぶ。怖い、高いのだけは駄目だ……。
「太陽?」
「何で起きちまったんだよぉ、ああっ死ぬぅ」
 輝は少し笑ってから、オレの腕をそっと解くと
「ちょっと待ってろよ」
と言って、何処かに行ってしまった。
 オレを一人にするな、輝。行くなぁ!! 飛行機、落ちちまうかもしれねぇじゃねぇかよぉ!! 怖い、高いの怖いぃ〜!!
 オレは座席の手すりにしがみついて、泣き出しそうになるのを必死で堪えていた。ガタガタと震える手がちゃんと言う事を利いてくれなくて、オレはますます怖くなった。足がガクガクで、座席からおっこちそうになった。
「ほら、ちょっとは食えよ」
 輝はすぐに戻ってきて、オレをちゃんと座らせた。怖くて仕方がないオレを見ながらくすくすと笑って、黙って背中を撫でてくれた。ちょっと安心したけど、やっぱり怖い。輝が何かをオレに食えと言っているけど、目を開けるの怖い。
「おいおい、無敵じゃなかったのかよ?」
「インディ・ジョーンズだって蛇が嫌いだろ? オレだって高所が嫌いなんだよっ!!」
 オレはそう言い返すと、恐る恐る目を開けた。それから外を見ないように、何とか窓を閉めた。輝は笑いながら手伝ってくれたけど、明らかに面白がっている。手伝ってくれるんだったら始めから窓を閉めてくれたら良いじゃねぇかよ!!
 サムと零がチェスを中断してこっちを見に来た。
 おい、重心が傾いてバランス崩れて落ちるだろが!! あっち行けよ、殺す気かっ?!
 サムはめちゃくちゃ面白がっているのか、いかにもからかってますって口調だ。零なんか、本気で怖いのに腹を抱えて笑っている。息が出来ないくらいだぜ? こいつら、本当に親友か?
「とりあえず、何か食べろよ」
 輝はフランス料理っぽいステーキをフォークに突き刺して、オレに差し出した。食欲は全くなかったけど、仕方がないから少し口をあけて、大人しく食べた。美味しい筈なのに、味がよく分からなかった。冷や汗と涙っぽい味がした……ってこれは汗じゃん。
 オレは黙って目を閉じた。ああ、いつになったら着くんだよ。早く着けぇ、飛行機が落ちる前に着けぇ。
 輝がお皿を置く音がした。かちゃんという音が二回。どうやらフォークも置いたらしい。サムと零が笑いながら遠ざかって行くのも感じた。チェスの続きをやるらしい。
「太陽、もう少し寝てるか?」
 輝がそう言って、オレの頭を撫でた。
 オレはゆっくりと目を開けて、輝の顔を見た。窓の方は見ないように、必死で輝だけを見つめる。優しそうな目がオレを見ていた。
「寝たいけど、全然眠くない」
ああ、どうして眠くないんだよ、オレ。寝たいぃ〜、着くまで寝てたいぃ〜。
 輝は優しい顔をして、じっとオレを見つめていた。
 何を考えているのか全く分からないし、なんか一瞬ドキッとしてオレは顔を反らした。でもやっぱり輝はじっとオレを見つめている。何を考えているもかなぁ? と思ったけど、なんだか聞けなかった。
 輝は突然立ち上がった。オレの頭をぽんぽんと叩いてから、空兄の所に向かっていく。優しいような、厳しいような、不思議な顔をしていた。
 オレは怖かったけど、輝が気になって震える足を無理やり動かして、椅子の上に膝立ちになった。零とサムがオレを見たけど、オレはあえて見なかった。見たら窓の外が見えちまうじゃねぇかよ。
 輝は空兄と話をしていた。何を話しているのかは聞こえなかったけど、起こされた事でちょっと怒っているらしい。空兄はむっとした顔で輝の腕を引っ張った。輝は座ったらしい。椅子のせいでになって見えなくなった。見えるのは空兄と輝の頭だけ。
 オレはあきらめて座った。
 サムと零が黙っているらしい、声は輝と空兄のだけ。でも何言っているのかは全く分からない。何を言っているのかなぁ? 早く戻ってきてくれよ、輝。
 しばらくオレは目を閉じていた。眠れるかなぁ? なんて思っては見たけど、やっぱり眠くはない。足はまだ震えが止まらない。
「太陽ちゃん」
 突然、空兄がオレの肩を叩いた。
 ちょっとびっくりしたけど、オレはほっとして目を開けた。
 空兄はオレの顔をじっと見てから、ポケットに手を入れた。それから
「高所恐怖症だって?」
と言って、薬ビンを出した。白いカプセルの薬が沢山入った茶色のビンだった。
「はい、これ飲んで」
「何?」
「睡眠薬だよ、着くまでぐっすり眠れる」
 そう言って、空兄はオレの手にカプセルをひとつ乗せると、眠そうにあくびをして、元の椅子に座った。輝は水の入ったコップをオレに押し付けて、隣りに腰を下ろした。
「着いたら起こすから」
 そう言って、少し恥ずかしそうな顔をした輝の肩を叩いて、オレは目を閉じた。暖かい輝の体温をすぐ隣りに感じてほっとする。何も言わずに輝が毛布を掛けてくれて、オレはありがとうと言おうとしたけど、そのまま眠ってしまって何も言えなかった。

 目を覚ますとオレはベッドの中にいた。
 薄手のタオルケットをかぶっていて、誰もいない静かな船室にいた。そんなに広くはないけど(っていうか、狭い)、なんだか居心地がいい。ベッドは一つしかないからどうやら個室らしい。窓が一つあって、その向こうに輝の背中が見える。
 オレは起き上がって部屋を出た。
 サムが笑いながら零と並んで景色を眺めている。結構揺れているのに、あの二人は酔わないのかなぁ? オレ、乗り物酔いにだけはなった事がないから平気なんだけど。
 オレは辺りを見回した。
 青い顔をした輝が、身を乗り出しておえぇと吐いている。酔ったんだ、輝。このくらいなんともないのになぁ、オレ。なんか見ていて可哀想になってきた。
「大丈夫か?」
 オレは輝の背中を擦った。
「うう、気分悪ぃ」
 輝がそう言って少し顔を上げた。冷や汗をかいているらしい、髪の毛が少し濡れていてほっぺたにくっついている。
「空兄に薬もらってこようか?」
「もう飲んだんだけど、効かねぇ」
それからまた輝は吐いた。もう、何も腹の中には入っていないらしい。胃液以外には何も出てこない。青い顔の輝は手すりに凭れたまま、目を閉じた。
 サムと零がこっちを見て、それから何処かに行ってしまった。白状者だなぁ。親友が吐いてるんだからどうにかしてやれよな。そう、思いながら、オレは輝の背中を擦り続けた。
 空兄が上から降りてきて、輝の顔を覗き込んだ。
「部屋で寝てたらどうだ?」
「風に当たってた方がマシ」
「お前、何で船にだけ酔うんだよ?」
「知るかよ、オレだって酔いたくて酔ってる訳じゃねぇ」
 輝は手すりのすぐそばに座りこんで、それっきり何も言わなくなってしまった。
「しょうがねぇなぁ」
 空兄はそう呟くと輝の肩を叩いて、何処かに行ってしまった。それと入れ違いでサムと零が手にコップを持って戻ってきた。
「輝、大丈夫?」
 サムはオレの隣りにしゃがんで、輝の肩にタオルを掛けた。それでそっと汗を拭いて
「もう少ししたら賢治に追いつく筈だから我慢して」
と優しい口調で言った。ちょっとカッコいいサムはオレの顔を見て笑った。
「太陽、海は大丈夫なの?」
「おう、オレが駄目なのは高所とあんこだけだぜ」
「輝が駄目なのは海だね」
 輝は何も言わずに床に突っ伏すと、珍しく泣き出した。
「もう嫌だぁ、帰りたいぃ〜」
零が何も言わずにそんな輝の涙をタオルで拭った。
「海に来ると必ずその台詞だね」
 サムはくすくすと笑って、輝の肩を叩いた。輝はやっぱり何も言わず、しくしくと泣いていた。時々、ああ、揺れてるぅ〜、死ぬぅ〜、とか呟きながら輝はひたすら倒れていた。
 
 一時間くらい経つと、薬が効いてきたのか輝は復活した。さっきまで揺れてるぅ〜、あぁ〜っとか泣いていた面影は何処にもなく、元気にクルーザーを走り回っていた。
 オレは輝と一緒にクルーザーを探検して、あちこち走り回った。サムと零が久々についてきてくれたから、オレは少しほっとした。よかった、嫌われた訳じゃなかったんだと思うと本当に落ち着いた。
 一周してから、サムが行かないほうが良いんじゃないかと行っていた舵のある場所も探検に行った。それは下の船室に降りる為の階段がある広めの船室の上にある。空兄が暇そうに水平線の彼方を眺めていた。
「おう、来たかお前ら」
 嬉しそうに空兄は笑って、輝の肩を叩いた。輝とは違って、真っ直ぐで真っ黒なショートカットが風に靡く。全然似ていない兄弟だけど、やっぱり仲は良さそうだ。
「暇だったんだよ、運転していくか?」
 気前良く空兄は笑って、輝の肩を抱いた。
 少し笑いながら、輝はさり気なくその腕を振り払う。今までずっと仲が悪かったなんて思えないくらい、仲のいい兄弟になったみたいでオレは嬉しかった。
 零は笑いながら、オレの背中を押した。
「桜野さん、似合いそうですわ」
「え? そうか?」
「俺のイメージでは何でも出来る無敵の女の子だから、これくらい出来て当然って感じがする」
 サムはニヤニヤと笑いながら零と一緒にオレの背中をぐっと押した。風でもみくちゃの髪をオレは払いのけて、興味本位で舵を覗き込んだ。
「こんな海の真ん中だったらぶつからないし気にすんな」
 オレは頷いて、操縦桿を握った。
 
 その日の夜、薬が切れたらしい輝はまた身を乗り出して吐いていた。青い顔で床に座り込んで、しくしくと泣いている。オレンジ色の髪が冷や汗でほっぺたに張り付いて、月明かりにキラキラと輝いていた。
 オレは輝の背中を擦りながら、仲良くアイスティを飲んでいるサムと零を見た。ニコニコしながら夜空を見上げて、幸せそうに笑っている。オレの知っているサムじゃないから、少し心細い気がしたけど親友が幸せならそれで良いとオレは思った。
 空兄は薬を飲んでるからまたそのうち効くとか言って見向きもしない。暇そうに現地のお酒(どうやらラム酒らしい)のボトルを傾けている。舵の前の椅子に座ったまま、幸せそうな顔をしている。もうかなり飲んでいる筈だけど、空兄は平然としていた。
「ああ、気持ち悪ぃ〜」
 輝が情けない声を上げて、手すりにぎゅっとしがみついた。
「もしかして、輝さぁ」
「……なんだよ」
「海が怖いのか?」
 輝は涙でべちゃべちゃの顔を上げて、黙って頷いた。病人以上に顔色が悪い。本当に大丈夫なのかよ、おい。空兄、どうにかしろよ。
「オレ、泳げねぇんだよ」
「はあ?」
「っつぅか、水が怖い」
 輝はますます暗い顔で深い青の海原を見つめた。
 ぽつんと浮かんだ大きな満月が海に映っていて凄く綺麗だった。少しだけ香る潮の匂いと、優しい波の揺れが心地よかった。果てしなく続く大海原を見つめて、やっぱり地球は広いなぁと思った。
「輝、溺れた事でもあんのか?」
 オレは輝に尋ねた。聞かないほうが良いのかなぁ? とは思ったけど、やっぱり気になった。だって、オレにしてみりゃ輝は勉強以外は何だって出来る天才なんだよ。音楽も出来るし、ボクシングも得意だし、ケンカは強いし、背も高い良いヤツだから。
「小さい時にプールで溺れた」
 輝は恥ずかしそうにそっぽを向いた。少しだけ赤い顔をした輝が海を見ないようにしているのを見て、オレは少し笑った。輝にもやっぱり怖い物はあったんだなぁ。オレが高所恐怖症(かなり重症)なのと一緒で。
「そういう太陽は高い所から落ちた事があるのか?」
「オレは屋根から落ちたぜ」
 オレは笑った。小さい時に屋根の上で天体観測していたら、足を滑らせて思いっきり落ちた。って言っても、一階建ての小さな家だったし、朝に雨が降ってたおかげで土が軟らかくて怪我はなかったんだけど。
「はあ?」
「本当だって」
 オレは輝の肩を叩いた。薬が効いてきたらしい。だいぶ顔色が良くなってきた。さっきまでああ〜とか、死ぬぅ〜意外をしゃべらなかった輝とは大違いだ。
「オレ、泳ぎだけは得意だから安心しろよ。輝が溺れたら助けてやるから」
「屈辱的だな、それ」
「そんな事を言うんだったら見捨てるぞ、コラ」
「分かった分かった、助けろ」
 その時だった、いきなり凄い勢いで船が揺れて、輝は悲鳴を上げた。ちょっとやそっとの揺れじゃない。これはもしや、タイタニック? でも、カリブ海の真ん中に氷山なんかあるんだろうか?
「ああ〜揺れてる〜!!」
 一瞬にして顔色が元に戻った輝は、突然オレに抱きついて泣き出した。本当に怖いらしい。ガタガタと震えながら、小さい子供みたいにわんわん泣いている。
「おい、しっかりしろよ」
「太陽ぉ〜、オレもうダメ!!」
 輝がそんな事を叫んでいると、オレの目の前に誰かが仁王立ちになった。一人じゃないのは分かった。オレの分かる限り、靴は四組だからだ。
「あれ? 輝くんは何で泣いてるの?」
 聞きなれた超ムカつく声だ。間違いない、あのサタナエルだ。偉そうに胸を張って、銃を片手に持っている。それは真っ直ぐオレと輝に向けられている。
「テメェのせいだろ?」
 オレはそういうと、抱きついたまま泣いている輝の腕を振り払って立ち上がった。目をつぶって泣き叫んでいる輝は手すりに掴まったまま全く動けそうにない。これはちょっと不利だな。
 サムだったらこう言うのかな? 身動きの全く出来ないナイトの輝を守りながら、無敵のクイーンのオレが四人の相手をやっつけなくちゃいけない。少し離れた所にはプロモーションするまでにはまだまだ時間の掛かるポーンのサムと竹刀がないからプロモーションは出来そうに無い零がいる。その二人の事も守らなくちゃいけないんだ。
 こりゃあ、オレがいくら無敵のクイーンでも、ちょっとばっかり苦戦だな。せめて揺れが収まって、輝が自分の身くらい守れるようにさえなれば勝ち目はある。
「ああ、輝くんは水が怖いんだっけ?」
 サタナエルはにこっと笑った。
 今日は仮装パーティでもやっていたらしい。頭には漆黒のシルクハットをかぶっていて、サングラスを掛けている。シャツにはHELLとロゴが入っていて、胸には逆さ十字の刺青がある。
 サタナエルと名乗っておいた上に、逆さ十字の刺青なんてなかなか面白い事をやるじゃねぇか。そもそも、逆さ十字はキリスト反対の連中が十字架をからかったものだ。まあ、オレは無神論者だから、宗教なんて信じた事は無いけど。
「チェックメイトだよ、太陽ちゃん。無敵の君はこれでも戦うのかな?」
 さわやかな笑顔を浮かべて、ヤツはオレの顔を覗き込んだ。  輝はまた泣きじゃくっているし、サムと零はプロモーションが出来なかったみたいだし、こりゃあ真面目にチェックメイトかも……。これからどうにかしようとすれば、サムと零と輝は殺されるに決まってる。
「あっれぇ〜賢治、俺の事を忘れてるんじゃないの?」
 少し離れた所からサムの楽しそうな声が聞こえた。どうやら空兄がいる舵の前に立っているらしい。見晴らしがいいから援護するにはちょうど良い場所だ。
「俺がプロモーションするのを忘れちゃって、太陽と輝を虐めて遊んでるって訳?」
「サムくん、もう遅いよ。チェックメイトだもん」
「それはどうかな? 俺はこういう局面から大逆転するチェスが得意なんだよ?」
 サムは笑いながら銃を片手で握ると、オレに向かって大きく手を振った。優しい笑顔が月明かりに照らされてキラキラと輝いた。
 オレはサタナエルに向き直った。
 その瞬間、サタナエルの手から銃が弾き飛ばされた。
 サムが撃ち飛ばしたらしい。こんな闇夜によくそんな真似が出来るなぁと感心しながら、オレはサタナエルの腹に一発、飛びっきり重い拳を一発食らわせて、落ちている銃を拾い上げるとそれを蹲るサタナエルのこめかみに押し当てた。もちろん撃つ気は無いけど、これで連中の動きを封じられる。
 とたんに何処から持ってきたのか、装飾品の綺麗な剣を持った零がサムのいる見晴らしの良い運転席から飛び降りてきた。白いドレスがひらひらと靡いて、オレのすぐそばに着地する。そのせいでクルーザーがまた大きく揺れて、輝が情けない悲鳴をまた上げた。
「桜野さん、手伝います」
「おう、頼むぜ」
 オレは零の肩を軽く叩くと、サタナエルを蹴っ飛ばして輝の前にしゃがんだ。
「コイツの事は任せるぞ」
それから銃を輝に握らせた。
「無理、揺れてるって」
 そう言いながら銃を握った輝は、いつもの無敵の輝とは似ても似つかない顔をしていた。いかにも自信がなさそうで、今にも泣き出してしまいそうな顔をしていた。
 とりあえず、形勢は逆転。
 プロモーションした零とサムと、相変わらず役立たずな輝と、危機は脱した無敵のオレ。これならどうとでもなる!!
 オレと零は目配せをしてから駆け出した。遠い所から援護してくれている射的の天才を信じて、オレは拳を強く握り締めた。

 船の揺れが治まる頃、輝は少し復活していた。サタナエルは取り逃がしたけど、結構な数をぶちのめしたからこれで当分手出しは出来ない筈だ。
 オレは皆が無事なのを確認すると、サタナエルが突っ込んできたらしいクルーザーの方を見た。
 まだ止まったままだ。今追いかければ捕まえられる。船と船との間が結構広いから、何か無いと乗り移れない。ロープとか、鞭とか。インディ・ジョーンズは覚えるほど見たから、鞭は多分使える筈だ。実戦経験は全く無いけど、この際そんな事を言ってはいられない
 気絶している”HELL”の連中が鞭と銃と剣を持っているのを見て、真っ先に鞭と剣を引っつかんだ。銃を持つ余裕は無いからあきらめて、サタナエルの方を見る。焦げ臭い、硝煙の匂いがする。
「ちょっと、太陽?!」
 サムが後ろで叫んでいるのは無視して、オレは鞭を思いっきり振った。少し離れていたけど、何とか向こうのクルーザーの二階にある手すりに巻きつけられた。うん、ハリソン・フォードみたいに上手く出来ている。
 オレは鞭をしっかりと握るとターザンみたいにそれにぶら下がって向こう側へと乗り移った。下は海だけど、結構高い場所だから、極力下は見ない。
「テメェら、このオレから逃げられると思うなよぉ〜!!」
 声を張り上げてそう叫ぶと、オレは二、三人の乗組員を蹴っ飛ばして上手く着地した。あんまり船は揺れていないけど、輝は心配そうな顔でオレを見つめていた。
 鞭を引っ張って外そうとしたけど、外れない。
 おい、ハリソン・フォード!! どうやって外すんだよ、これ。あんなに簡単そうに鞭を振り回してたじゃねぇかよぉ〜!! 引っ張っても外れない。
 オレは鞭をあきらめる事にして、剣をぎゅっと握り締めた。急に不安になってきて、冷や汗が背中を冷たく濡らす。手がカタカタと小さく震えているけど、オレはそれを力で押さえ込んだ。オレは無敵の桜野太陽だろ? しっかりしろよ、と自分に言い聞かせて。
 オレ達が乗っていたのよりも大きなクルーザーだった。下の船室からも、上からも乗組員が出てくる。まあ、今は足手まといだった輝がいない分、勝ち目は十分にある。なんとでも出来る筈だ。
 サタナエルは痛そうに腹を撫でながら、オレをじっと見つめていた。
「太陽ちゃん、”HELL”に付く気はないかなぁ?」
「誰が付くかよ」
「そんな事を言っていていいのかなぁ?」
「何がだよ?」
 オレは剣を握り締めると真っ直ぐサタナエルを睨みつけた。不思議とドキドキするのは何だろう。コイツが言おうとしている事が怖いのか? 無敵の桜野太陽のオレが?
「言っておくけどサムくんは人殺しだよ?」
 オレは耳を疑った。頭が急に真っ白になって、握っていた剣を落としそうになる。頭を必死で働かせて、あのサムがそんな事をする筈が無いって言い聞かせてはみるけど無駄だった。サムが人殺し? どういう事だよ? どうしてオレに黙ってるんだよ?
「ああ見えて血も涙も無い、宝の為だったら人の命だって平気で奪うトレジャーハンターなんだ。皆には隠しているみたいだけど、あの手は真っ赤な弟の血で汚れてるんだ」
 サタナエルはゆっくりとオレに近寄ってくると、昨日のサムと同じようにオレの顎を掴んで真っ直ぐヤツの方に向けさせる。あの時のサムと同じ、何でも見透かしそうな目をしていた。それがオレは怖かった。
「太陽ちゃんはそれでもサムくんとトレジャーハンターをやっていられるの?」
 オレは答えられなかった。剣を握っている事も出来ないほど、急にガタガタと手足が震えた。かしゃんと金属音がして、オレは剣を床に落としていた。顔を反らしたかったけど、反らせなかった。ヤツの目に捉えられたまま、オレは恐怖に怯えて泣いていた。
「あれ? 君は無敵じゃなかったの?」
 サタナエルはからかうようにオレの髪を弄び、軽く突き飛ばした。妙に冷たい視線だった。トイレでオレに水をぶっ掛けていた零の目よりもずっと冷たかった。そして同時に恐ろしい炎が燻っているように見えた。
 オレは床にしりもちをついた。すぐそばにある筈の剣は、サタナエルが蹴っ飛ばして何処か遠くにあるようだ。どんなに手を伸ばしても届かなかった。涙で滲んだ視界には剣らしきものさえ映らなかった。
「ねぇ、”HELL”と組まない?」
 オレは必死で首を横に振った。そして自分に必死で話しかけた。おい、無敵の桜野太陽! 立てよ、立たなくちゃ負けちまうじゃねぇかよ。そんなの嫌だろ? だったら立とうぜ、さあ、早く。でも足はいう事を訊いてくれない。
「嫌なの?」
 サタナエルは不思議そうな顔をして、オレの前にしゃがんだ。  オレは必死でヤツを突き飛ばそうとするけど、いくら頑張ったって、やっぱり力では勝てない。畜生、どうしてオレはこんなに弱いんだよ。全然無敵になれてねぇじゃんっ!
「仲間になってくれるって言うんだったら、どんな事だって叶えてあげるよ。輝くんとサムくんみたいな親友がほしいんだったら探してあげるし、君の大好きな宝物の謎だって沢山教えてあげる」
 ヤツはにこっと笑うと、ズボンのポケットに手を入れた。サムがこっちに向かって銃を撃つ音が聞こえてくるけど、少し離れた所に向けられていると、直感が告げている。
「太陽ちゃんが嫌だって言っても、そうするつもりだけどね」
 何かが口と鼻に押し当てられた。どうやら白いハンカチらしい。それが何かはイマイチ分からなかったけど、甘い匂いがした。それと同時に頭がぼうっとしてきた。体中から力が抜けて、輝よりも細くてサムよりも太い温かい腕に抱かれるのを感じた。そのままオレは真っ暗な闇に包まれて、気を失った。

 オレが目を覚ますと、輝が心配そうな顔でオレを覗き込んでいるのがまず目に入った。青い顔をしていたり、気分が悪そうだったりはしない。ただ、凄く心配そうな顔をして、オレをじっと見つめていた。
「輝?」
 オレは何度か瞬きをして、体を起こした。
 どうやら輝の膝で寝ていたらしい。近くにはサムと零と空兄がいた。皆、怪我をしているようだったけど、かすり傷程度だったらしくてほっとした。
 クルーザーはゆっくりと静かに揺れている。遠くの空が明るくなっている所からして、もうそろそろ朝らしい。雲が紫色に染まって行って、月は白く光りにかき消されて行く。
 急に輝がオレの肩を引っ張った。何が何だか分からなかったけど、気がつくとオレは輝の大きな腕の中にいた。大きな肩が小さく震えている。もしかして、泣いてる?
「ひ……輝ぅ?」
 オレは何も出来ずに、黙って座っていた。
「よかった、無事で」
 優しい声が耳元で聞こえて、サムと零がほっとした様子で笑い、空兄が黙って舵の所に戻って行く背中を目で追いかけた。輝のオレンジ色の巻き毛だけが見えるけど、オレはどんな顔をしていていいか分からなくて困惑していた。
「どうしたんだよ、なぁ?」
 輝は何も言わなかった。ただ、暖かい手が髪を撫でているのを感じて、オレはその腕に身を任せる事にした。
 何だかほっとする。こんな風に抱きしめてもらったのは、何年ぶりだろう。中学に入ってからママや父ちゃんはこんな事しなくなった。あんことの仲は悪くなるだけだったのに。
「でも本当に桜野さんが無事でよかったですわ」
 零がそう言ってしゃがむと、笑いながら輝の肩を叩いた。優しい笑顔で、オレに向かって笑うと、サムを見る。サムは笑ってそんな零の隣りにしゃがんだ。
 やっぱり、サムが人殺しの筈がない。きっとオレを揺らすための嘘だったんだ。あんなの忘れよう。あんなのきっと夢だったんだ。
「そうだよ、怪我したんじゃないかって皆心配してたんだからね」
 サムは優しく笑って、オレの顔を覗き込んだ。それから、大切そうに零の肩を抱いて笑った。
「輝、落ち着いた?」
「そっとしておいてあげましょうよ、一番心配していたんですから」
「そうだね」
二人はそんな会話を勝手にしながら、輝の頭をぽんぽんと叩いて船室に戻った。
 オレは二人がどうにかしてくれると思って期待していたから、途方に暮れていた。オレ、どうしたら良い? 輝、そろそろ離して……。

 輝が離してくれたのはそれからたっぷり十分後の事だった。オレはどうして良いか分からないまま、じっとしていた。輝は満足そうに顔を上げてにっこりと笑った。
「本当によかった、太陽が無事で」
「オレが怪我するとでも思ったのか? オレは無敵なんだぜ」
 そうは言ってみたけど、正直自信は無かった。
 男相手でちょっとばっかり不利だったにしても、オレはあのサタナエルなんて名乗ってる神様を冒涜している野郎に力で負けて、サムが人殺しだって言われただけで泣いちまって、座り込んでいる事しか出来なかった。本当は無敵なんかじゃない。ただ、凄く弱い事を隠そうとして意地を張っているだけ。
 輝はそれに気がついたような顔をして、オレの髪をそっと撫でた。
「太陽、いい加減そう言って意地張るのはやめろよ」
いつもよりもずっと優しい声だった。少し低くて柔らくて暖かい声で、オレはドキっとした。やっぱりバレていたか。輝だと思って油断してたぜ。
「親友だろ? 無敵のヒーローだって弱い事があるって知ってるだろ?」
 オレは言い返さなかった。
 確かにその通りだった。インディ・ジョーンズも、スーパーマンも、結局欠点はあって、ターミネーターみたいなロボットも弱点は必ずあった。弱点が無いヤツなんていない。どんな映画に出てくるヒーローも、すっごく強いヒロインも、何かしらの欠点があって、ライバルがいる。そうじゃない映画なんて面白くないし、それが現実だから。
 輝は黙ってオレの肩を叩くとにっこりと笑った。
「太陽がインディ・ジョーンズだったら、オレはそれを助ける親友のレミ・ボードワンだろ? インディ・ジョーンズが親友に嘘ついててどうするんだよ」
 オレは少し笑って頷いた。
 そうだよな、輝とサムと零は今までの友達とは違うんだ。大丈夫、オレは一人じゃないんだから。一人じゃないから無敵のクイーンでいられるんだから。

 翌日の昼間。オレはご飯を食べてからずっと昼寝をしていた。  サムと零は相変わらず仲良くチェスをするばっかりでオレと輝をほとんど無視しているからつまらない。輝は空兄と話をしているし、オレはやる事が何もなかった。
 って、訳でオレは部屋で一人、昼寝をしていたんだよ。ちょうどクーラーが効いていて居心地がいいし、どうせ昼の間は”HELL”も手出しはしないだろうから。
 夢を見た。
 オレはあんこと二人で家にいた。ママと父ちゃんが仲良さそうに話をしているのを隣りの部屋で聞きながら、オレは笑っていた。
 楽しかった。何が楽しいのかは分からないけど、ただ、嬉しくて楽しくて仕方がなかった。意味もなく、くすくす笑いながらあんこと顔を見合わせて、部屋で座っていた。
 ママと父ちゃんがオレとあんこを呼んだ。
「出かけよう」
 そう言って、皆は先に車に乗って、オレはそんな皆を追いかけようとした。でも、皆はオレを置いてさっさと出かけてしまった。
 オレは一人で留守番をしながら、どうしてオレを置いて行ったのかをずっと考えていた。いつもだったら絶対にオレの事を待っていてくれる筈なのに。
 その時だった。外で銃声が聞こえて、オレは家から飛び出した。
 家の前の道路はいつもとなんら変わらない様子だった。唯一違うのは、色だった。道路は真っ赤な血で汚れている。玄関からじゃよく分からないから、オレは大急ぎで道路まで出た。
 目の前には真っ黒な銃を持ったサムと、血の海に沈んだママと父ちゃんとあんこの姿があった。皆、胸から血を流していて、死んでいるのは明らかだった。
 あんこの虚ろな目と目が合って、オレは座り込んだ。家族の血で真っ赤に染まった場所がどんどん広がっていく。オレの座り込んでいる場所まで血は広がって、オレの足も血の色に染まった。
「太陽、賢治から聞いたでしょ?」
 サムは笑いながらオレの前まで歩いてきた。手は真っ赤で、いつもと同じ優しい笑顔を浮かべている。大きな青い目はただ真っ直ぐオレを見つめている。
「……サム、どうして?」
 オレは必死でサムの肩を揺すった。
 サムは人殺しなんかじゃない。ヤツが言っていたのは嘘なんだ、サムが……サムが人を殺す筈が無い!! オレの目の前に立っているのはサムの皮を被ったサタナエルだ。ハリウッドの特殊メイクでサムに化けてるだけなんだ、サムはこんな顔じゃない。
「俺は人殺しなんだよ、もう何度もこんな感じで人を殺してきたんだから」
 サムは笑ってオレの額にも銃口を押し当てた。冷たい笑みに凍りつく。暴れて逃げ出したいのに、この銃を払い除けるだけでいいのに、腕はちゃんと動いてくれない。サムの視線が怖い。
「じゃあね、太陽」

 オレは其処で目を覚ました。
 冷や汗でぐっしょりと濡れた髪を撫で付けて、夢の中と同じでちゃんと動かない腕を必死で動かして体を起こした。
「サムは人殺しじゃねぇもん」
 オレは知らず知らずのうちにそう呟いていた。
 吐き気がするけど、輝が心配するだろうから部屋の外には出たくない。何より、今はサムに会えない。きっとオレは訳もなく泣いたりするに決まってる。今はじっと、堪えよう。
 オレはタオルケットを頭から被って、声を殺して少しだけ泣いた。今だけ、少しだけだからなと自分に言い聞かせて、ぎゅっと強く膝を抱いた。塩っ辛い涙が頬をべちゃべちゃに濡らしていた。

 サムと零は仲良くチェスをしていた。もう二時間も一手に悩んでいる零を見ながら、サムは遠くを見ていた。空兄が零と一緒になってその手を考えていたけど、サムはそんな二人を笑って見ながら水平線の彼方を見ていた。
 太陽は少し傾き始めているけれど、まだ明るく辺りを照らしている。真っ青な海がキラキラと輝いて、凄く綺麗だった。透き通った水が跳ねていた。
 オレはそんなサムを見てから、少し考えた。これ以上、サムの事で悩むのは嫌だ。誰か知ってそうな人にちゃんと話を訊いて、ちゃんと納得しなくちゃ。
 ちょうど、機嫌のよさそうな輝がいかにも甘そうなミルクティを飲んでいるのを見つけた。今なら話しかけても怒らない筈だ。サムに訊けるほどの勇気は無い。
「なあ、輝」
 オレは輝の隣りに座った。
「ん?」
 少し嬉しそうな顔をした輝が、オレの顔を見た。
「あのさぁ、サタナエルの野郎が言ってたんだけどな」
輝の顔色が少し変わって、ああやっぱり零に訊けばよかったと後悔し始めた。でも、此処まで話しておいて聞かなかった事にしろなんて、輝が聞く筈無い。
「何か言われたのか?」
 オレは深呼吸をして、覚悟を決めた。きっとサムは人殺しなんかじゃない。親友の事も信じられないような無敵のヒーローなんていないじゃねぇかよ。
「……サムが人殺しって、本当なのか?」
 輝は一瞬、暗い顔をして、オレの肩を叩いた。
「まあ、そういう事になるのかな」
 オレはびっくりして心臓が止まりそうになった。頭が真っ白になって、ただ一言、サムが人殺しって言葉だけが通り過ぎて行った。オレが信じていた親友はオレに隠し事をしていたのか?
「太陽はサムに双子の弟がいた事を知ってるか?」
「しらねぇけど」
 サムの家に何度も遊びに行ったと思うけど、サムはお母さんと二人で暮らしてるんじゃないのか? 弟なんて見た事が無いけど。
 輝はコップを床に置くと、サムの方を見た。それからゆっくりと話を始めた。

 サムの弟はオスカーって名前だった。
 昔はサムとサタナエルの野郎とオスカーの三人でトレジャーハンターをやっていたらしい。オレが二人と知り合った時にはサタナエルはとっくに転校していたから詳しい事は知らないけど、でもオスカーとサムは凄く仲がよかった。
 オレが知っているオスカーは病弱で、生まれつき心臓が悪かった。もう何度も心臓の手術を受けていて、胸には沢山の傷跡があった。心臓病なんだって言っていた。オレが知り合った時には病気が悪化していたから、ずっと病院にいた。でも、トレジャーハンターをやっていた頃はそんなに酷くなかったから、いろんな国に仕事しに行ったって、楽しそうに話してくれた。
 オレとサムの二人でトレジャーハンターを始めてからは情報係として、病室からパソコンでいろんな事を調べては連絡してくれた。遠く離れてはいたけど、すぐ近くにいるみたいで、凄く楽しかった。オスカーもそうだって言ってたっけ? 自分は病室にいるのに、サムやオレと一緒に古代遺跡の中にいるみたいだって、凄く嬉しそうに話してた。
 オスカーは頭の回転が速くて、ハッキングなんてお手の物だった。あっという間に建物の防犯装置を狂わせて、テレビカメラの映像を切り替えたり、とにかくパソコンには詳しかった。しかも、歴史に詳しくて、今の太陽みたいにあっという間に謎を解いたりする天才だった。
 でも、しばらくするとオスカーの病気はますます悪くなった。医者にパソコンを禁止されて、トレジャーハンターも出来なくなった。
 医者には治せないからもうしばらくしか生きる事は出来ませんって言われたんだって、サムが学校で泣いていた。オスカーがいなくなったら、もうトレジャーハンターなんて出来ないって。
 皆、その事はオスカーに黙っていたらしいけど、オスカーは知っていた。お見舞いに行ったオレに、オスカーは楽しそうにその話をして
「天国ってどんな所なのかなぁ?」
と笑っていた。
 オスカーは神様なんか信じていなかった。そんなものいるんなら、どうして俺は治らない病気になったんだって、そう言って時々泣いていた。それなのになぜか、天国と地獄だけはあるって信じていた。
 狭い病室が嫌いだからって、病院を抜け出したのだって一回や二回じゃない。公園のベンチに座ったオスカーが、心臓発作を起こして救急車で運ばれるなんて、もうしょっちゅうだ。オレはその度にサムと一緒に公園を走り回った。
 医者に見放されてから、オスカーは家に戻った。
 薬もいらないといって飲まないし、ヒステリーを起こして家を逃げ出した。誰よりも心配していたサムがいつも、そんなオスカーについて歩いていた。
「どうせ死ぬんだったら最後に、またトレジャーハンターをしたい」
 オスカーはそう言って、オレとサムを連れてカリブ海に行った。今と同じように、兄貴と一緒にオスカーが楽しそうに笑っていた。
 その日も、昨日みたいに敵のトレジャーハンターが襲ってきた。オレが何とか追い払ったけど、あの時、オスカーは撃たれてた。それも、致命傷だったらしい。あとでそう、サムから聞いた。
 オスカーは笑いながらオレとサムに言った。
「ねぇ、どうせ助からないんだから、今この場で殺してよ」
 サムが泣き喚きながらオスカーの肩を揺すった。オレはそんなサムの隣りで何も出来ずに泣いていた。今まで近くにいた人が死んだ事なんて無かった。だから信じられなくて、訳が分からなくなって、パニックになってた。
 なのに、オスカーは一人冷静で
「サムも輝も分かってるんでしょ? どうせ俺は死ぬんだよ?」
とか言って、にこっと微笑んだ。
「きっと死なないよ、神様がどうにかしてくれるもん」
「サム、神様なんていないんだよ?」
「オスカーがそう信じてても、俺は信じないもん」
「ねえ、早く終わらせてよ。これでも痛いんだよ」
 オスカーはサムがさっきまで使っていた銃を拾い上げると、サムの腕に押し付けた。オスカーは笑っていた。辛そうな、悲しそうな、そんな笑顔だった。
 オレは見ていられなかったから、目を反らした。
 その後すぐだった、大きな銃声がして、オスカーは死んだ。
 サムは返り血でぐっしょり濡れたままの手でオスカーを抱いて、一人で声を張り上げて泣いていた。真っ赤な血で汚れた銃を放り出して、ピクリとも動かないまだ暖かいオスカーの体を抱いて、一人で泣いていた。

「ちょっと輝、一体いつの話をしてるんだよ」
 サムがちょっと怒った顔で、輝の額にデコピンしてにっこりと笑った。
「オスカーの事なんて今更いいでしょ?」
「でもよぉ……」
「オスカーの事を引きずっててどうするの? もっと大人にならなくちゃ」
 サムはそう言ってにっこりと笑うと、オレの肩を叩いた。優しい笑顔にほっとする。そうだよな、サムはサムだもんな。過去がどうであろうが、死んだ双子の弟がいようが、今までもそうだったように、サムはサムである事に変わりないんだ。何も気にする事ない。
「あら、それってサムさん自身に言うべき言葉ではないでしょうか?」
「零、俺の事をからかってるでしょ?」
「そう見えますか?」
「見えるよ」
 サムと零がそんな言い合いをしながら、オレと輝に笑っていた。二人はオレと輝の事を無視していた訳じゃないんだと分かっただけでほっとした。
「ねぇ太陽、歌ってよ」
 サムはそう言って笑った。輝は立ち上がって
「じゃあ、オレはギターを取ってこよう!」
と笑いながら走っていく。空兄が笑いながら見ているのに気がついて、オレは大きく手を振った。零が笑いながらオレに手を差し出した。
 オレはありがたくその手を借りて立ち上がると、ギターを抱えて帰ってきた輝を見た。
「また洋楽か?」
 輝はそう言って床に座るとギターを抱え直して、軽く弦をはじいた。柔らかい、優しい音がした。
「何でもいいぜ、アヴリル・ラヴィーンは得意だから」
「オレ、あんまり詳しくないぜ」
「Nobodys Homeって曲、知ってる?」
「それは何とか」
 輝はにこっと笑って、ギターを弾き始めた。

 歌が終わると、何処かから拍手が聞こえた。辺りには誰もいないから空耳かと思ったんだけど、その場にいた全員がその拍手の音を聞いていた。
「此処だよ、スカイブルーのトレジャーハンターさん達」
 サタナエルの声だった。このクルーザーにちゃっかり乗ってやがるっ!! 服が濡れている所からして、手漕ぎのボートで来たらしい。
「太陽ちゃん、見事な歌だったよ」
そう言って、ヤツはまた手を叩いて笑った。
「黙れ、何してやがるっ!!」
「何って、君を口説きに来たんだよ」
 オレは拳を握った。
「オレはこう見えて、女の子には丁寧で優しいんだよ」
「それでもオレは犯罪者に手を貸さねぇぞ」
「サムくんだって犯罪者でしょ? 何言ってるの?」
 サタナエルは真っ直ぐオレに近寄ってきて、殴ろうとしたオレの腕を掴んだ。それから、顔を近寄せて
「太陽ちゃんが手を貸してくれるんだったら、君のお母さんがどうして追われているのか、教えてあげる」
と、オレにだけ聞こえるように囁いた。
 サムと零が”HELL”のメンバーに捕まったのが視界の隅に入った。輝が暴れて抵抗しているのも。空兄がこめかみに銃口を押し当てられて、今にも泣き出しそうな顔をしているのも。
「ねえ、知りたくない?」
 オレは一瞬だけ”HELL”の味方してもいいかななんて思ってしまった。そんなの駄目だとは言い聞かせてみても、やっぱりママがオレに黙っている事だから気になる。
「じゃあ、前金として教えてあげるよ」
 ヤツはニヤっといやらしく笑って、オレの耳元に口唇を近寄せた。
「君のお母さんはね、輝くんのお父さんの婚約者だった。黒仁家を再興する為にも、結婚しなくちゃいけなかった」
 黒仁家? それってまさか、零の……。
「ところが結婚式の当日に逃げて、君のお父さんと結婚してしまった。仕方がないからって事で、今度は君が輝くんと結婚するようにしようと考えたんだ。だから逃げ回っていた」
 輝と結婚っ?! ママ、何処かの国のお姫様だったんじゃ……。
「ようやく、黒仁家もあきらめて零ちゃんと輝くんを結婚させる事にしたみたいだったけど、まさか、学校が同じになっちゃって二人が親友になっちゃうなんてお母さんは予想していなかったみたいだよ」
 サタナエルはオレの腰に手をやると、いきなり強く抱き寄せた。濃い香水の匂いがする。オレはあんまり好きな匂いじゃない。はっきり言って、トイレの芳香剤みたいな安っぽい匂いだ。
「ねぇ、君はこのまま輝くんと仲良くトレジャーハンターをやっていくの? お母さんはそんな事を望んではいないんだよ、分かるよね?」
 オレの頭は爆発寸前だった。オレの婚約者が輝だったっ?! ママが零と同じ黒仁家っ?! 何だか話がこんがらがってきた。どういう事だよ、お姫様だから追われてたんじゃねぇのかよ?
「もう一度だけ訊くよ、もっと詳しい話が聞きたいんだったら”HELL”に協力して」
 オレは黙って考えた。もっと詳しい事が知りたい。ママの事も、父ちゃんの事も、零との関係も。でも、こんなヤツには協力したくない。輝とサムと零を裏切るような真似、絶対にしたくない。
「ねぇ、君は本当の事が知りたくないの?」
「知りたいけど……」
「そっか、じゃあ仕方がない」
 ヤツは指をぱちんと鳴らすと、輝を捕まえていた五人の仲間に向かって何かを言った。英語だったらしい。サムがサタナエルに向かって大声で英語の何かを叫んだ。どうやら輝に聞こえても大丈夫なようにだったらしい。意味はオレにもなんとなく分かった。
「賢治、輝は泳げないんだよ」
だと思う。正しい訳かどうかは置いておいて、とにかくその手の事を叫んだ。
 輝はなんとなく意味が分かったらしく、また暴れ始めた。
「おい、離せよ」
「賢治、いい加減にして」
「だったら、太陽ちゃんを説得してくれるかな?」
 サタナエルはにっこりと笑って、オレの髪を撫でた。開いた右腕で殴ろうと試みたけど、結局出来なかった。
「太陽ちゃん、輝くんが溺れ死んでもいいの?」
「輝は殺しても死なないよ」
「そうかな? 人って簡単に殺せるんだよ、命って蝋燭の小さな炎みたいに儚い物だから」
 そんな事を言っている間にも、今にも泣き出しそうな顔をした輝が淵まで連れて行かれていた。海に落ちたら、輝は死ぬ。
「分かった、協力するから輝を離せ」
 オレはそう言って、サタナエルの顔を見た。今すぐ顔面に一発パンチしてやりたいけど、残念ながら両腕はヤツに封じられている。仕方がない、品が無いからこれだけはしたくなかったけど今はそんな事を言ってる場合じゃない。
 オレは深く息を吸い込むとヤツの股間を思いっきり蹴り上げた。
 サタナエルはあっさり手を離してくれたから、オレはその腕を掴み輝を海に突き落とそうとしているやつらに向けてヤツを投げ飛ばした。
「輝、よけろ!!」
 よっしゃあ、これで勝てる!!
 すぐに下でばっしゃーんと六人が落ちる音が確認できた。サムと零を捕まえていた連中は、六人を助けに海へ飛び込んだ。
「太陽、今のはちょっと下品なんじゃないの?」
 サムがそう言って、オレの肩をそっと叩いた。しゃがんだまま、じっとしている輝がゆっくりと這ってこっちに来た。それから笑ってオレの肩に掴まった。
「でも、オレは助かったぜ」
 輝はにっこりと笑って、拳を握った。
「そうかな?」
 ずぶ濡れのサタナエルが大きなサーベルを持って空兄の隣りに立っていた。冷たい視線をオレに向けながら、ヤツは笑った。
「助けたくないの?」
「オレはいいぞ、兄貴は死なねぇ」
 薄情な輝はそう楽しそうに笑って言った。
 ゆっくりと太陽は傾いてきた。影はどんどん長くなる。空兄とサタナエルの影がオレ達のすぐ近くまで伸びていた。真っ赤な夕焼け空と同じ色に、海もクルーザーも染まっていく。
「本当にいいの? 輝くん、オスカーの事を忘れたの?」
 急に輝は黙りこんだ。やっぱり、目の前で死んじまった仲間の事なんてそう簡単に忘れていられる筈がない。オレは目の前で仲間が死んだ事が無いから分からないけど、死んでしまったらもう二度と会えない。
 オレは少し考えた。
 この野郎、一体オレが協力したらどうなると思ってるんだ? オレが強いのは輝とサムがいるからであって、一人じゃ何にも出来ないって事くらい分かっている筈なのに。オレが持ってる歴史の知識だって、そんなに凄いものなんかじゃないのに。
「太陽ちゃん、君が頷いてくれさえしたらいいんだよ?」
「また海に突き落とすぞ!!」
「やれるものならやってみなよ、その前に輝くんのお兄ちゃんは天国行きだから」
 仕方がない、今だけ”HELL”に協力するか。空兄を死なせる訳にはいかない。空兄の近くにいるのは二人だ。明らかにこっちが不利だろ? 
「分かった、ちゃんと約束する」
 オレはそういうと、大人しくサタナエルの方に歩いて行った。ゆっくりと、でもしっかりと。少しでいいから時間を稼がなくちゃ。
 そして、たっぷり五分をかけて、サタナエルのそばまで行くとオレは考えた。
 空兄を逃がしたかったら、どうしたらいい?
 サタナエルの持っているサーベルを奪い取って……。無理だ、空兄は銃口を押し当てられている。引き金を引くより早くやっつけるなんて馬鹿な事は出来ない。
「腕を出して」
 ヤツはそう言って、ポケットに手を入れた。何をするつもりなのかは分からないけど、ヤバい事には違いない。また睡眠薬か何かか? それとも腕を縛るつもりなのか?
「君、黙っていれば美人なのにね」
「うるせぇ、オレは美人になんてなりたくないから黙らねぇぞ」
 サタナエルは楽しそうに笑ってオレの両手に手錠を掛けると、突然抱き寄せてきた。押し返そうとすると、耳元で
「あの人、殺せって命令するよ」
と囁かれたから、暴れるのはやめた。
「おい、放せよ」
「気が済んだらね」
すると、ヤツはオレのスカートの中に手を突っ込んできた。オレはもう一回股間に一発お見舞いしてやろうかと思ったけど、そうする前に膝立ちになるように命令された。
 畜生!! 覚えてろよ、このクソ野郎!!
「太陽ちゃん、大人しく目を閉じて。そうやって睨むのもやめて」
優しそうな口調でサタナエルは笑う。腸が煮えくり返るほどムカつくけど、今はまだ我慢だ。
 オレはゆっくりと目を閉じると、少し俯いた。落ち着け、皆がどうにかしようと考えてくれている筈だろ? 小さなスキでいい。少しでいいから。
 サタナエルが口唇を指の腹で撫でているのを感じる。気持ち悪い!! 早く何とかしろよ、輝、サム!! とはいっても見ても、誰かが動いた気配は全く感じられない。
 その時だった、空兄がオレの名前を呼んで、銃を突きつけていたヤツに頭突きをした。それもかなり強烈。今ので絶対、鼻の骨が折れた。もしかしたら、衝撃で気絶したかも……。
 オレは待ってましたとばかりに立ち上がると、サタナエルの顔面に思いっきり回し蹴りを食らわせた。その勢いで、ヤツはまた海へ落ちた。オレは床に落ちていた銃を拾い上げて
「このオレを怒らせたらこうなるんだよ、参ったか!!」
と思いっきり怒鳴って、笑った。

 その夜、サムと零が計画していたらしい、小さなダンスパーティにオレと輝は招待された。どうやら二人はオレと輝を無視していたんじゃなくて、これを隠れて計画していただけだったらしい。いきなり零に真っ白なドレスを着せられて、訳が分からなかったけど、嬉しかった。
 バイキング形式の晩御飯の中にあったお寿司の山の皿を取ると、オレは手すりに凭れて座るとそれを五分で食べた。輝がぎょっとした顔で見ていたけど、気にしない。どうやら、全部で百皿分のお寿司だったらしい。
「お前、今の何処に入ったんだよ?」
 輝はそう言ってオレの腹をしつこく撫でていたけど、オレにしてみりゃ普通の事だったから訳が分からなかった。親にもギャル曽根ってニックネームをつけられたけど、多分あそこまでは食えない。
 サムと零が仲良くスローダンスを踊っているのを遠めに見ながら、オレと輝はひたすら食っていた。刺身が美味い。流石、カリブ海! 海の幸は最高だ。
「ねぇ、二人とも」
 サムがそう言って、オレの手から皿を取り上げた。ああ、まだ伊勢海老食ってない!! サムに取られたぁ〜!!
「いい加減食べるのやめて踊ったら? ダンスパーティをやってるのに、食べてるつもり?」
「まだ伊勢海老食べてない!!」
「あれだけ食べたのに、まだほしいの?」
「桜野さんの胃袋って、ブラックホールみたいですわ」
 零が淡いピンク色のドレスを翻してオレの前にしゃがんだ。そして輝の手から生春巻きが乗った皿を取り上げて、にこっと微笑んだ。
「また後で食べたらいいでしょう? 誰も取りません、桜野さんみたいに食べる人もいませんから」
 輝は少し膨れっ面で生春巻きを見ていたけど、突然立ち上がった。オレはまだ不満だったんだけど、輝はもう治まったのか?
「それもそうだな、踊ろうぜ」
輝はオレの腕を引っ張って立たせると、ふざけた調子で
「プリンセス、Shall we dance?」
と手を差し出した。ついでに紳士らしくお辞儀をして見せた。
「こういうとき、オレはなんて言ったらいいわけ?」
「Sureかな?」
「んじゃあ、Sure」
 オレはそう言って、輝の手に自分の手を乗せた。
 少し離れた所で、サムと零が仲良くワイングラスに入ったぶどうジュースで乾杯しているのが見えた。空兄は一人でお酒のボトルをがぶ飲みして笑っている。結局見つからないままのランスロット・ブラックバーンの剣を誰もが忘れて笑っている。
 輝は笑った。
「太陽、お前ダンスくらい出来るよな?」
「出来る訳ねぇじゃん、オレが出来るのはフォークダンスだぞ!」
「しょうがねぇなぁ」
 輝はそう呟いてからオレの手を引っ張って踊り始めた。輝、ダンスも踊れたのか……。そう思いながら、オレは黙ってそんな輝の言う通りに踊っていた。

 翌日、オレは日本行きの飛行機の中で寝ようと必死でいた。昨日はちょっと夜更かししたからすぐに眠る事が出来て、オレは泣かなくてすんだ。空兄が入れてくれた暖かい紅茶のおかげで、すぐに落ち着いたから。
 日本に戻ったはいいけど、時差が−14時間もあるから、頭がくらくらする。朝の飛行機に乗ったのに、着いたのが昼だぜ? もう訳が分からない。しかも疲れたし、体が凄く重かった。今までこんなに酷い時差ボケにはなった事が無い。
 ほうっとした頭を必死で動かしながら、オレは家まで帰ってきた。空兄が家まで車で送ってくれたから、オレは途中で車にひかれるような事も無かった。
 輝とサムが手伝ってくれて、オレは家の鍵を開けて、中に入った。昼間だから鍵は開いていると思ったのにおかしいなと思いながら、ドアを開けると、輝がトランクを引っ張って中に入れるようにドアを押さえた。
「なあ、太陽」
 輝の声が聞こえて、オレは顔を上げた。
「ん?」
「これって……血じゃねぇか?」
 輝が指差した所には転々とどす黒い血があった。少し乾きかかっているけど、そんなに古いものじゃない。まだ濡れている。それは真っ直ぐリビングに続いていた。
 何があったのかは分からないけど、心臓が凄い勢いで脈打ってる。これはきっと家族の血なんかじゃないよな? あんこがオレをびっくりさせようとして、悪戯しているだけだよな?
「なあ、皆でついてきてくれるか?」
「おう」
 輝は返事をして、零と空兄を呼びに車に戻った。サムがしゃがんで、血をじっと見つめた。何を考えているのかは分からなかったけど、それから少し考えて
「太陽、公園で渡した盗聴器は何処?」
と結構な勢いで尋ねた。
 確か……食卓に貼るのを忘れていたから、セーラー服のポケットの中だと思う。でも、ママが洗濯したかもしれない。
「部屋は何処?」
「リビングの横」
 サムは走って車に戻るとパソコンを持って戻ってきた。輝と零と空兄も一緒だ。大丈夫、オレは今仲間と一緒にいるから無敵だろ?
 オレは家の中に入った。血の後を追って、震えそうになる手を押さえ込んで、真っ直ぐ中に入った。大丈夫、オレなら平気だから。そう言い聞かせては、また一歩足を前に踏み出す。
 リビングは血で真っ赤に汚れていた。床はまさに血の海で、ソファーの陰から覗くママの手が其処に沈んでいた。指輪ははめたままだ。結婚指輪だったそれは、ママの血の色で真っ赤に輝いていた。
「ママ?」
 オレはゆっくりとソファーの方に歩いて行った。
 投げ捨てられた包丁が視界の隅に入った。乾きかけた真紅の血で汚れている。何処を見ても真っ赤、生臭い納豆が腐ったような匂いもする。
 ママは死んでいた。胸から血を流していたらしいけど、服についた血は乾いていた。其処から漂ってくる腐敗臭が、死んでからの時間を告げていた。
「ママ?」
 サムがママの前にしゃがんで首に手を当てたけど、無駄だった。それから辺りを見回して
「偽装工作だ。わざと家中を締め切って、犯行時間を誤魔化してる」
と呟き、食卓の方に向かって歩いていった。
「零、まだ生きてるかも知れないから早く探して、空兄は電話」
 輝がオレの肩を叩いて、そっと囁いた。
「太陽、あんこちゃんの部屋は?」
「二階のトイレの横」
 震えだしそうな声を必死で押さえ込んで、オレは立ち上がった。オレは一人になっちまったのか? そうじゃねぇだろ? でも一体誰がママを?
 頭の芯がズキズキと痛かった。胃の辺りがぐるぐる回る嫌な感覚に教われる。心臓は凄い勢いで脈を打っている。気持ちが悪い。鼻がつんとして、いつの間にか流れ出した涙が床に落ちる。
 輝が何も言わずにぎゅっと抱きしめてくれた。オレはそんな輝の背中に手を伸ばして、声を上げて泣いた。優しく頭を撫でながら
「気がすむまで泣け」
と言ってくれる輝の肩は凄く、凄く大きかった。

 気がついた時、オレは警察署にいた。
 すぐ隣りで輝がオレの背中を擦っている。警官に事情を話している空兄も見える。反対側の隣りで、刑事さんの推理にイチャモンつけてるサムと零もいる。
 正直言って、聞きたくない話ばかりで、オレは少し怖かった。どうやらママだけじゃなく、父ちゃんもあんこもダメだったらしい。死体は三つだって、言っているのが聞こえた。
 輝がオレの顔を覗き込んで
「外に出ようか? お茶でも飲んで落ち着こう」
と言って笑った。
 ママの腕みたいに冷たくない、暖かい輝の腕が嬉しかった。大丈夫、オレは一人じゃない。輝もサムも零もいるんだから。
 頭は相変わらずズキズキと痛むけど、輝が笑っているのを見たらちょっと気が楽になった。家族がいなくなっても、輝達がいるんだから大丈夫だと、そう思えた。辛いけど、オレは無敵の桜野太陽だから、スカイブルーのトレジャーハンターだから大丈夫。
「平気だぜ、泣くのはやめた」
 オレはいつもと同じように笑って、輝の肩を叩いた。サムと零が振り返ってオレを見ているけど、オレはそんな二人に笑って見せた。思いっきり、キラキラと輝く太陽のような笑顔を。
 そうだよな、泣いていたって何も解決しない。本当の事は分からずじまいになりそうだけど、ママや父ちゃんはオレが泣いているのを望んだりしない筈だから。
 サムはそっと近寄ってくると
「ねぇ、本当に大丈夫?」
と優しく頭を撫でた。オレはその手にちょっとだけ甘えて、頷くと
「オレはめそめそするのが好きじゃないんだ」
と言った。
 輝は笑ってオレの肩を叩くと
「じゃあ、今晩は皆でオレんちに泊まりに来いよ」
と笑って、サムと零の顔を見た。二人は笑って頷いた。

 オレは輝と空兄に連れられて、輝の家にいた。サムと零は後ろを歩いている。あの二人、一体何の話をしているんだろう。オレには難しすぎてよく分からない。それに、家族の死体が目に焼きついて離れないから、そんな事をうだうだ考えている余裕は無い。
 サムと零が、オレと輝の肩を叩いた。
「ねぇ、輝。今日は太陽と寝てあげたら?」
「輝さん、チャンスです!!」
 一体何のチャンスだよっと突っ込みたくなりながらも、今日は寝られそうも無かったからそうする事にした。輝は少し恥ずかしそうな顔をして
「オレの部屋は散らかってるぜ」
とオレの肩を叩いた。
「オレの部屋の方が散らかってると思うぜ」
で、本当にそうだった。

 小奇麗な輝の部屋のベッドの上で、オレはぼうっとしていた。
 輝はお風呂に入っていて、今は誰も部屋にいない。サムと零の所にさっき行ったけど、二人は映画みたいにキスしていた。とてもじゃないけど話しかけられなかったから部屋に戻ってきたって訳だ。
 部屋にはグランドピアノとギターが二本置いてあった。勉強机の上に山積みになっている楽譜はどれも有名な洋楽で、古いものばかりだった。ピアノの上のメトロノームは静かに置かれたままで、ボクシングのグローブが床に放り出されたままになっていた。
 オレはする事も無くて、ピアノの前の椅子に腰掛けた。
 髑髏のシールが張られたカッコいい小物入れの中にピアノの鍵とプリクラの貼られたキーホルダーが入っていた。プリクラには二人の人が写っていた。
 一人は幼い輝で、もう一人は知らない外国人のおじさんだった。いや、おじさんとお兄さんの間くらいの年の男の人だ。透き通るような金色の髪で、真っ黒なロングコートを着ている。少し恥ずかしそうにピースをして、ギターを持っていた。
 輝はそれからすぐに戻ってきた。まだ少し濡れた髪をタオルで拭きながら、オレの顔を覗き込んだ。優しい笑顔を浮かべながら、オレの頭にタオルをかぶせる。
「何やってるんだよ?」
「暇だったから」
 オレは笑って、輝の腹にタオルを投げつけて笑った。

 オレは転校する事になった。
 ちゃんと本当の事は教えてもらえなかったけど、どうやら本当にママは黒仁家を脱走したらしい。サタナエルが言っていた事は本当だったって事がよく分かった。
 零の家に引き取られる事に決まったから、空色中からは転校するって、そう言っていた。零もその機会に蒲公英町に戻るらしい。零が一緒だって聞いてほっとしたけど、でも、おばさん達はママの事を本当に憎んでいる。正直、行きたくはない。
 零は本当の事を知っているみたいだったけど、何度訊いても教えてくれなかった。
「桜野さんはまだ知らなくていいんです」
……って。オレはどうしてママが憎まれているのかも知らないまま、おばさんの家に引っ越すのかと思うと気分が凄く重たかった。
 輝とサムは大丈夫だって言ってくれたけど、学校が別々になればいつかきっと友情ってつながりが消えてしまう。オレはそれを嫌というほどよく知っている。始めは手紙を書くって言ってくれた友達も、一ヶ月もすりゃオレの事を忘れてしまっているって。
 きっと二人はそんなヤツじゃないって信じたい。こんなに近くにいるんだから、引越し先が隣り町なんだからっていくら言い聞かせてもダメだった。やっぱりオレは無敵なんかじゃない。インディ・ジョーンズなんかじゃない。引っ越す事を考えただけで、苦しくて泣いてしまった。
 明日、明日になればオレは空色町から引っ越すんだ。輝もサムもいない、ママを憎むおばさん達が待ってる蒲公英町に引っ越すんだ。
 きっと笑顔も此処までだ。今までは太陽って名前に恥じないくらい明るくしてきたけど、まるで厚い雲に覆われた梅雨の太陽みたいに、オレはくぐもった輝きしか持たなくなっちまう。どんな宝石も塵に覆われれば輝かなくなるのと同じように。
 オレは一人で泣いていた。
 犯人は今も見つからない。手掛かりが少なすぎて、犯人がまだ特定出来ないって。唯一の手掛かりがサムのくれた盗聴機の音だけ。それ以上の事は何も聞かされていない。
 葬式の日程もまだ決まらない。ママと父ちゃんとあんこの死体は今日解剖するらしいけど、それが終わってかららしいから。
 零は蒲公英町に戻る準備で忙しいし、輝とサムだけがそばにいてくれている。おばさんは零がオレに会わないようにと手配してくれたらしくて、まだ一度しか見ていない。
 オレは輝とサムとの事を考えていた。
 まだ知り合ってから一ヶ月も経っていない。なのに、オレは二人の事が本当に大好きだ。こんなに仲良くなれた友達は初めてだったから、オレは本当に嬉しかった。二人の為だったら体張って助けられる。トレジャーハンターをやっている間は本当に生きているって思える。
 なのに、もうお別れなんだな。もう、会えないかもしれないんだな。強く感じられたこの繋がりも、蜘蛛の巣みたいに大人の手で払い除けられる。宝物だけは捕まえられるこの糸も、大人にだけは負けてしまう。
 オレは少し考えた。
 そうだ、オレは輝とサムと零がいる間は無敵のクイーンのままでいられるんだ。最後の最後まで輝こうぜ、太陽は太陽らしく笑っていなくちゃいけない。どんなに苦しくてもどんなに悲しくても、オレは最後まで笑おう。泣くのは二人と離れてからでいい。一瞬一瞬を精一杯楽しんで、無敵のオレとして生きよう。
 それがオレに出来るたった一つの事だから。

 翌日、輝とサムが朝早くからオレを引っ張って、輝の家の近くの工事現場に行った。何があるのかは全く分からないまま、オレはそんな二人の後ろを追って歩いた。
「輝? サム?」
 大きな真夏の太陽がオレの頭の上で輝いている。緑色の雑草に塗れた草原状態の工事現場には蝉の声が響き、空をトンボと小鳥が飛び交っている。
 雑草を踏みしめて歩く度、輝がつらそうな顔をする。サムが苦しそうな顔をする。それでもオレは必死で笑って二人の後ろを追って歩く。
「何処に行くんだよぉ〜?」
「秘密♪」
 しばらく行くと、サムは大きな木の前で立ち止まった。どうやら柳の木らしい。大きくてしっかりしていて、枝が柔らかく揺れる姿は涼しげだった。
「太陽、俺達からプレゼントです☆」
 明るく笑ったサムが、輝の背中を叩いた。何かを企んでいるらしい。目がキラキラと輝いていた。
 輝は笑って、オレの前までくると目を閉じろと言った。オレは面白いからそれに従った。輝とサムが一体何を企んでいるのか、気になる。
 輝は首に冷たくて少し重たい何かを吊るした。それから何も言わずにオレの頭をぽんぽんと叩いた。
「もういいよ」
 サムがそういう声が聞こえて、オレは目を開けた。
 首には綺麗なペンダントがぶら下がっていた。ロケットになっていて、飾りをめくるといつぞや遊びに行った時に撮ったプリクラが其処にははめ込まれていた。綺麗な緑色の石が凄くカッコよかった。
「二人とも?」
「親友でしょ? 次の仕事はギリシアに行くから用意しておいてよ」
「そうそう、迎えに行くからさ」
 ああ、どうしよう。マジで嬉しい。胸が張り裂けそう。泣かないって決めたのに、真面目に泣きそう。本当に、本当に嬉しい。  オレは二人に抱きついて、思いっきり泣いた。
 そうだよな、転校しても、時間が経っても、オレは無敵の桜野太陽でいられる。スカイブルーのトレジャーハンターは永遠だもんな。あの青い海で知った事も、黄金の砂漠で見た事も、奈良公園であった事も、教会であった事も皆、オレが死ぬまで絶対に忘れない大切な思い出。
 だから大丈夫、オレは笑って引っ越していける。

   そして、その時間は来た。
 二人が来てくれて、しばらく話をしてから零と車に乗った。
 オレは零のおばさんが運転する車から身を乗り出して二人に手を振った。そんな事する必要が無い事くらい分かっている。望めばいつだって二人に会えるんだ。だってこんなにすぐ近くにいる。
 オレはペンダントを抱いて、零と二人で手を振った。
 遠く離れていく二人の親友は、今にも泣き出しそうな顔をしながら手を大きく振っていた。いつも冷静なサムが柄にもなく必死で手を振っていた。輝がオレと零の二人に向かって泣き出しそうな顔で叫んでいるのも見えた。
 でも大丈夫、オレはスカイブルーのトレジャーハンターの無敵の桜野太陽だからって、ちょっとやそっとじゃ自分の道を曲げない、無敵のクイーンだからって、そう、心の中で呟いて……。


Fine.



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