第二章 彼と兄の仲良し兄弟




俺は顔を上げるとそっとドアを見た。
ばたんと音を立てて、出入り口のドアは閉まった。スウェルの泣き声がドアの向こうから聞こえてくる。血を踏んだのだろうか、ドアまで点々と靴跡が残っている。ドアノブは誰かの血で真っ赤に濡れていた。
もう仲間達の呻き声も聞こえなかった。血を流し過ぎて意識がないのかもしれない。意識がなくなってしまったら、誰も助けに来なかったら、仲間達は出血多量で死んでしまうのだろう。だからって誰かが助けにくるとは思えなかった。
俺はドアを通り抜け、昨日の夜に俺が座っていた場所で泣きじゃくっているスウェルを見た。あのガキがその隣りで心配そうな顔をしている。
「スウェル」
 俺はスウェルの顔を覗き込んで名前を呼んだ。反応は全くなかった。
ガキの手は血で濡れていた。同じように、スウェルは頬と手が真っ赤に染まっていた。俺の血だろうか、涙を拭って顔中が血の色に染まるのを、黙って見ているのがつらかった。でも、死んでしまった俺にはそれをどうする事も出来ない。俺の声はスウェルに届かないし、見えもしないのだから。
「スウェル、レオン、迎えに来たぞ〜!!」
誰かの声が聞こえた。目の前には一台の真新しいワゴン車が止まっていた。その窓から淡いオレンジの髪の男が身を乗り出している。
その男は黒いタンクトップに長めのズボンのカッコだった。ちゃんと洗濯されたきれいなタンクトップは、所々に小さな返り血のようなものが飛んでいる。どうやら、この男も暗殺者らしい。
ガキはスウェルをそっと立たせて車に乗せると、その隣りに腰掛けた。ドアが閉まったから、俺は大人しくその後ろをふよふよと浮かびながら追って行った。乗ったら良かったんだけど、乗って誰かに触れた時、通り抜けるのが怖かったから乗りはしなかった。ありがたい事にゆっくり走ってくれたから見失う事無く追いかける事が出来た。
着いた所は世界を真っ二つに区切るゲートの向こう、ゲート・オブ・ヘブンの小さな建物だった。小さいとはいっても、“ベルモット”よりは大きい。
其処が何処は知らない。俺は生まれて初めてゲート・オブ・ヘルから出たのだ、二度と此処へは来られないだろうと思っていたのに、死んでから来る事が出来て少し嬉しかった。
どうやら彼らは其処に住んでいるらしい。おそらく、ブラックスピリッツの寄宿舎みたいな所なんだろうけど、政府の施設だからもっと派手だと思っていたのにかなり質素だった。
出入り口の向こうには、いろんなセンサーが付けられていた。良くは分からなかったけど、網膜と声帯、指紋とパスワードらしい。ガキはスウェルを連れて、慣れた手つきでそれを解くとドアを開けた。
あとから入って来たオレンジ頭も同じように中に入っていった。俺もその後を追って中に入った。
中はとてもきれいに掃除されていて、ピカピカに磨かれた強化プラスチックの床は俺以外の人間の姿を写してキラキラと輝いていた。床には塵一つ落ちていない。
足下を小さな丸い掃除機が行き来しているので、こんな便利な物があったのかと感心していた。流石ゲート・オブ・ヘブン、ゲート・オブ・ヘルと違って便利な物が多い。
廊下は真っ直ぐ奥に向かって続いていた。模様の無い、真っ白な壁紙に、真っ白な床。蛍光灯の色までが白だった。唯一色がついているのは部屋のドアでどれも同じ濃い茶色で、ドアノブは金色だった。
俺は黙ってその場に立っていた。スウェルを見失ったのだ。まあ、そんなに広い建物じゃないから順番に探して行けばすぐに見つかる筈だけど、そんな事、どうだっていいと思う事が起こった。
いかにもアルビノって感じの男がさっきのオレンジ頭に話し掛けていた。その後ろに、透き通るような淡いオレンジの長い髪の男が浮かんでいたのだ。
アルビノって感じの男と何処か似ている。髪の色とかは全然似ていないけど、顔つきとか体系とか、凄く似ている。半分透けていて、うっすら光っている。俺と同じ、死んだ人間なんだろうか? 床に足は着いていなくて、ふよふよと浮かんでいるから多分そうだろう。
「お前、何者?」
俺はロン毛に尋ねた。
優しそうな顔で俺を見た男はにっこりと笑って
「『ブラックスピリッツの暗殺者』だよ、死ぬ前はね」
と囁いた。低くて落ち着く、優しい声だった。目の前でしゃべっているアルビノの男とよく似た声だった。
「死んだのか?」
「まぁね、弟の友達に殺されたよ」
男は俺のすぐそばまでゆっくりと移動すると
「そういうあなたは?」
と落ち着いた口調で尋ねる。
長い髪が少し揺れた。生前はかなりきれいな髪をしていたんだろう、光っているのと別に髪はつやつやと輝きすとんとしていた。とても優しそうな顔と柔らかい視線が俺に向けられていた。
「俺はヴァル、“ベルモット”の店長だ」
男には着ている黄色い大きめのシャツが良く似合っている。黒っぽいぴったりとしたズボンのベルトに大きな銃を吊るすホルスターが二つぶら下がっている。でも肝心の銃は無い。
「ああ、新入りのスウェルちゃんって子のお兄ちゃん」
「それ、誰から聞いた?」
「本人がレオンに話してたよ」
「レオンって?」
「背の低い、水色のTシャツの子」
あのガキか、と俺は納得すると辺りを見回した。

長い廊下を行き交う明らかに未成年ばっかりの中に、何人か同じように光っている人がいる。誰もが、黙って誰かの後ろを追いかけている。皆とても悲しそうな顔をしている。
「どうして成仏出来なかったの?」
男は俺に向かって言った。
かなり真面目そうな顔をしていた。何処かに行ってしまいそうなアルビノの男を無視している。さっきまで追いかけていたんじゃないかと言いたくなったけど黙っていた。
「分からない」
「あの子、心配?」
「そりゃ、妹分だから」
男は壁の近くに座り込んで(でもやっぱり浮かんでいるけど)
「きっと大丈夫。スウェルちゃんって強い子だと思うから」
と言ってにっこりと笑った。無邪気な、優しい笑顔だった。
「アンタはどうして成仏しないんだ?」
「俺は弟が心配なんだ」
 そして男は静かに語り始めた。落ち着いた、優しい声でゆっくりと……。

俺はブラウン、グレイの兄だ。
グレイは生まれた時から体が弱くて、見ての通りのアルビノだからよく虐められていた。珍しかったし、元々気の弱い性格だったから。だけど、昔からとても優しい子だった。
母親は俺とグレイを捨てた。
理由は一つ、親父が許せなかったんだ。不倫しまくって、酒を飲みまくって、タバコを吸いまくって、最後には母親を殴る事もあった。
俺とグレイは母親にずっと守られていてそんな目にあった事は無かったけど、いつも怖くて二人で部屋に閉じこもっていた。
親父はブラックスピリッツの元責任者だった。親父に引き取られた俺とグレイは『ブラックスピリッツの暗殺者』として生活する事になった。親父は政府で働く事になったからと出て行ってそれっきり。ほとんど顔を見た事がない。
母親に捨てられた時、グレイはまだ三歳になったばかりだった。俺はその一つ上の四歳だ。その時、俺は無力で何も出来なかった。
母親が捨てるなんて言ったとたん、グレイはその足に縋りついて泣いた。俺にはそんなグレイが見ていられ無かった。正直、俺も泣きたかったが、これからグレイを守るのは俺なんだからと、必死に涙を堪えたのを覚えている。
だから無理矢理、泣きじゃくるグレイを引っ張って家を出た。少しの荷物と、グレイの小さな手を引っ張って親父のタバコ臭い高級車に乗った。ポケットから金属製のボトルを取り出し朝から酒を飲んでいる親父の隣りで、俺はグレイを慰めていた。

「大丈夫だよ、きっといつか会えるよ」
 そう、グレイに言ったっけ?
酒飲みの親父はその当時、政府で働く事が決まっていたらしい。俺とグレイはその後任のアレックスって名前の人に育てられた。今もアレックスは変わらず責任者をしている。
アレックスは意外と優しかったし面白かったから、俺もグレイもブラックスピリッツでそれなりに幸せに暮らしていた。いろんな人に囲まれていたし、皆親切だし、虐めも無いし、平和で凄く楽しかった。
眠れない夜、二人で廊下をごそごそと歩いていた時も、ヘタクソだとか、音痴だとか言いながら、子守唄を歌ってくれたのもアレックスだった。
あの時、ギターを爪弾きながらアレックスが歌っていた子守唄は不思議な感じがした。聞いた事の無い曲だったけど、すぐに好きになったし、それを聞くと眠る事が出来た。初めて聞いた時、何処かで聞いたような気がした。それに何より、子守唄はめちゃくちゃ上手かった。
そんな楽しい毎日が続くなんて事はなかった。ある程度成長すると俺とグレイも暗殺者として働くようになった。親父
が俺達も働かせるようにとか、いい加減な事を言ったらしい。アレックスはその命令に従っただけだと、あとで知った。
ブラックスピリッツは嫌いじゃない。凄く大好きだけど、仕事は何よりも嫌いだった。人殺しなんてしたくなかったし、何度も殺して慣れるなんてものでもない。
グレイは元々血が苦手だったから、すぐに仕事を嫌いになった。何も食べなくなって、死にかけた。でも、俺はその隣りに座っている事しか出来なかった。何も言えなかったんだ。気の効いた事を一言でも言えれば良かったんだけど、俺は何も言えずにただ座っているだけだった。そんな毎日が何年も続いた。
そしてあの日、俺は死んだ。ちょうど二ヶ月くらい前の事だ。
俺はアレックスに言われ、マジメに仕事をしていた。ある政治家の護衛が仕事の内容だ。特に問題のない、一番楽で簡単な仕事だった。
でもその帰り、俺はブラックスピリッツのある通りの裏路地で、ある女に会った。
それはグレイの友達のリズと言う名前の女だった。茶色の肩に付くくらいの髪を揺らして、防弾チョッキにホルスターを腰に下げたカッコだった。何度か会った事があったから、彼女がいつもと全く違う様子だというのはすぐに分かった。
その時、俺はまだ彼女が暗殺者だとは知らなかった。ただ、グレイの友達だと、そうグレイと同じ歳のセシルとウィニットから聞いていた。
彼女はとても恐ろしい目つきで俺を見ていた。冷たく、鋭い、何かを憎むような目だった。なんて言ったら良いのかは分からないが、尋常ではなかった。
そうだ、 彼女は敵の暗殺者。グレイの友達とか言っておきながら、本当はグレイを傷つけてブラックスピリッツを壊そうとしている敵の暗殺者だったんだ。
「あなたには死んでもらう」
静かな路地裏に、そんな彼女の声だけが響く。低い、恐ろしく冷たい声だった。きっとブラックスピリッツの事を死ぬほど憎んでいるんだろう。
「どうして?」
「グレイを傷つけるため」
 俺は小さく深呼吸をした。とにかく時間を稼ごうと、そう思った。自分に出来る事を必死で考えて、何かやろうと頭をフル回転させたけど、結局何も思いつかない。
「どうしてそんな事、しなくちゃいけないの?」
「ブラックスピリッツを潰すため」
彼女の言葉に迷いは無かった。とても強い、落ち着いた口調が少しだけ怖かった。
俺には彼女の気持ちが分からなかった。その冷たい視線の奥にある、憎しみの気持ちだけは全く理解出来なかった。
本当はその場で彼女を撃ち殺す事が、俺には出来た。でもしなかった。俺が彼女を殺して、一番傷つくのはグレイだからだ。彼女の事を友達だと信じている、グレイだ。
何となくだけど、グレイは彼女の事が好きだったらしい。よく俺に彼女の事を話してくれた。その時の顔はいつも、凄く幸せそうだった。あの時の笑顔がふと、銃に手を掛けた自分の頭の中を過ったんだ。母親に捨てられた時のように、彼女の亡骸に縋って泣く弟の姿が。
だから俺には出来なかった。彼女を撃ち殺す事なんて事。
彼女はその事を知っていた。俺が彼女を殺せない事を知っていた。きっと分かっていたんだろう。だからわざわざ彼女が俺の事を殺しに来たんだろう。
彼女は黙って俺を見つめていた。初めて会った時とは全く違う、悲しい目だった。あの時は楽しそうに微笑んでいたのに、あの時は優しく笑っていたのに。
そう思いながら俺は何も出来ないまま、リズに殺された。
リズは冷たい視線を俺に向けて、にっこりと微笑んでいた。胸を押さえて、痛みに耐えていた俺をあざ笑うような冷たい微笑みを俺に向けていた。
「ブラックスピリッツなんてなくなってしまえばいいのよ」
幸い、心臓には当たらなかったらしい。這ってそんなに遠くないブラックスピリッツに戻って
「幸せになれよ」
とグレイに一言、伝える事は出来た。
苦しかった。痛かった。つらかった。
撃たれた胸よりも心がズキズキと痛かった。グレイに真実は告げないとは決めたが、死んでからもこうしてグレイのそばにいると、彼女がグレイに話し掛けている。グレイは何も知らず彼女と仲良く話をしている。
俺は時折、グレイに夢の中で話をする。今、幸せか? とか、セシルとウィニットはどうしている? とか。本当はそんな事、近くでいつも見ているから知っているんだ。殺しの仕事は嫌いだけど、凄く楽しく毎日暮らしているって事を。
夢でグレイは言った。
「オレはやっぱりリズと一緒に居たいなぁ」
純粋に、グレイは彼女が好きだったんだろう。何でも話せる友達だと、グレイはそう信じていたのだ。彼女が何よりもブラックスピリッツを憎んでいて、俺を殺したという事実を知らないままで、ただ彼女を友達だと信じていたのだ。
俺はそんなグレイに夢の中でも事実は言えなかった。幸せそうに笑ったグレイに
「そうか」
と言う事で精一杯だった。
別に彼女を恨んでいる訳じゃない。彼女に殺されても仕方がないほど、俺は何人もの人間をこの手で殺めて来たんだ。
楽しいブラックスピリッツでの生活と引き換えに、俺は人を殺したんだ。何人も殺して、それでもまだ殺して彼女に殺されるまではまだまだこれからも殺すつもりだった。
俺はそんな生活をしなくちゃいけなくなった原因である、親父が凄く嫌いだ。でも親父を素直に憎めない。親父が引き取らなかったら、俺は楽しいブラックスピリッツでの生活を知らなかった筈だから。
もし、親父が母親と上手くやっていたら、今頃俺とグレイは仲良く学校に通っていただろう。人を殺す事なんて、自分には全く縁のない事だときっと思っていただろう。そしてその通り、普通に平和に幸せに一生を暮らして満足して死んだだろう。成仏する事も出来ずただ宙に浮かんでグレイを見守っているなんて、そんな事はしなかっただろう。
グレイも同じ事を考えているらしい。小さい頃からいつもつけているグレイの日記を盗み読んでいると、いつもその事が書かれている。一番悲しかったのは
「どうして、兄貴が死ななくちゃいけなかったんだろう? どうしてオレじゃなかったんだろう? 一人で眠る夜が怖い」
とそう書かれていた時だった。
俺も生きている時からずっと、グレイは悪夢に魘されていた。殺す寸前に向けられる悲しい目や、銃声と同時に響く悲鳴、硝煙の匂い。手を濡らす生暖かい血の感触。それを思い出す嫌な内容の悪夢だ。
眠れなかった。皆がそうだった。皆が寝る前に睡眠薬を飲んでいた。そうしなくちゃ満足に眠る事も出来ず、悪夢に魘されて睡眠不足に陥るから。
そんな毎日がつらくて仕方がなかった。グレイが今もそんな毎日を過ごしている事を知っているから、余計に苦しかった。
だから、俺は成仏する事が出来ないんだ。したくても、グレイが心配で、心残りで、どうしても成仏する事が出来ないんだ。

ブラウンは話を終えると、少し悲しそうな顔をした。
「きっと大丈夫、スウェルちゃんって強い子だと思うから」
そう何度も確かめるように繰り返し呟いて、ブラウンは笑った。
「それじゃ、俺は行くよ」
去っていったブラウンの背中をオレは黙って見送った。楽しそうに笑っているグレイの背中を追いかけて行くのを……。
それはなぜか寂しかった。 誰かの後ろをふよふよと追いかけている半分透けた者、皆、同じように何かの事情があって成仏出来ずにいるのだろう。その人達は俺の成仏出来ない理由よりもずっと、大きな理由の気がした。 さっきのブラウンは結局、さっきの弟に何も出来なかった。俺は死ぬ前にスウェルに謝る事が出来た。
それはとても大きな違いだと思う。俺はきっと、スウェルが幸せだと言って心から笑えた瞬間、成仏する事が出来るんだろうと思う。
でもブラウンは違う。
いつまで経っても弟の事を気に掛けて、心配で仕方がない。きっと、弟が死ぬまで成仏する事が出来ないんだろう。小さな筈の違いも、こう考えるととても大きな違いだと思う。
ブラウンはその事を誰よりもよく知っているのかもしれない。何となく、感覚的にしか分からないけど、きっとブラウンなりに弟を見守って、幸せを誰よりも願っているのだろう。そう、俺は思った。
俺は黙って辺りを見回した。
近くにスウェルはいない。ただ、何人もの未成年と、ブラウンの弟が遠ざかって行くのが見える。何処か幸せそうに笑っている彼は、今も兄を殺した暗殺者の事を考えているのだろうか。
何も出来ないけど、俺なりにスウェルの事を見守ろう。
俺はそう心に決めた。どうせ、今の自分に出来る事はそれしか無いのだから。いつまでだって、スウェルを見守っていよう。成仏する瞬間まで、“ベルモット”で待ち続けた時と同じように黙って見守っていよう。
スウェルはきっと俺の事で泣いているだろう。
気にするなと言ってやりたいのに、きっと伝わらない。「生きている」と「死んでいる」の違いなんて小さいのにとは思うのだけど、その違いは小さいように見えてかなり大きい違いだ。今も俺は生きていた時と同じようにスウェルの事を近くで見守っているのに、ただその小さいようで大きい違いだけで話す事も触れる事も出来ないのだ。
俺は黙ってその場を離れた。ブラウンが行ったのとは反対方向に向かって、ゆっくりとだけど移動を始めた。誰かとぶつかりそうになる度に避けてはいたけど、避ける必要がないと気がついた。どうせ、誰にも俺は見えていないし、其処にいる事すら気がつかないのだから。











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